下津城
下津城(おりづじょう)は、尾張国中島郡下津(現愛知県稲沢市下津高戸町)にあった日本の城(平城)。「下津城址」の碑がある。一部土塁も残る。
下津城 (愛知県) | |
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下津城址の碑 | |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 室町時代中期 |
主な城主 | 斯波氏、織田氏 |
廃城年 | 文明8年(1476年) |
遺構 | 土塁、石碑 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度15分38秒 東経136度49分40秒 / 北緯35.26056度 東経136.82778度座標: 北緯35度15分38秒 東経136度49分40秒 / 北緯35.26056度 東経136.82778度 |
地図 |
概要
編集築城者の評細は不明であるが、応永7年(1400年)頃、尾張守護に補任された斯波義重が、下津城に尾張国の守護所を置いたといわれる。また永享4年(1432年)に第6代将軍・足利義教が富士遊覧の際に宿泊したといわれる。
応仁の乱が起こると、尾張国でも守護代織田氏が斯波氏の家督争いに介入して、二家に分裂して抗争を始めた。この時期に守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた「織田伊勢守家」当主の織田敏広が入城し、居城としたという。
文明8年(1476年)、敏広は守護代織田家の分家筋の「織田大和守家」当主の織田敏定と戦って敗れた。『和漢合符』によると、この際に下津城は焼失したという。その後、尾張守護所はその別郭であった清洲城へ移ることになった。また、下津城を追われた敏広は岩倉城を築いて居城としている。
交通
編集脚注
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