上野頼久
上野 頼久(うえの よりひさ)は、戦国時代の武将。備中国松山城主。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 永正18年/大永元年(1521年) |
官位 | 従五位下・兵部大輔 |
氏族 | 備中上野氏 |
父母 | 父:上野尚長 |
兄弟 | 澄相、信孝、頼久、高直 |
子 | 頼氏、右衛門尉 |
備中上野氏は河内源氏の流れを汲む足利氏の支流・上野氏の庶流。
室町幕府10代将軍足利義稙は明応2年(1493年)、従弟の足利義澄に将軍職を追われて西国に落ち延びたが、永正8年(1508年)、再び将軍に返り咲き、翌永正6年(1509年)、備中の固めとして上野信孝を備中鬼邑山城に封じた。
信孝は後に一門の高直に鬼邑山城を委ね、頼久には同国松山城を預けて帰洛した。頼久は備中における勢力拡大に努め、その後嫡子・頼氏に松山城を譲り、次男・右衛門尉を小松山城に入れてさらなる基盤を作り上げた。
また頼久は永正年間(1504年-1520年)、天柱山安国寺を再建するなどの功績を残した。なおこの安国寺は、後に同地を訪れた小堀政一により、再建者の名を冠した頼久寺と改称され現在にいたる。