上杉顕孝
上杉 顕孝(うえすぎ あきたか)は、江戸時代中期の出羽国米沢藩の世嗣。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永5年7月2日(1776年8月15日) |
死没 | 寛政6年1月5日(1794年2月4日)[1] |
別名 | 直丸(通称) |
戒名 | 瓊林院殿秀岸智英大禅定門 |
藩 | 出羽米沢藩世嗣 |
氏族 | 上杉氏 |
父母 |
上杉治憲、浄鏡院 上杉治広 |
兄弟 | 顕孝、寛之助[2] |
経歴
編集安永5年(1776年)、出羽国米沢藩9代藩主・上杉治憲(鷹山)の長男として米沢城にて誕生。母は側室お豊の方。天明2年10月7日(1782年11月11日)に父の養嗣子である上杉治広(8代藩主・上杉重定の次男)の養子に定められ、諱を顕孝とされる。
天明3年(1783年)3月には土佐藩主・山内豊雍の娘・采姫(米とも)と婚約する。天明5年(1785年)に実父が隠居し、米沢藩主嗣子となり、若殿様と称される。同年9月22日に米沢城の三の丸に実父の隠居所である餐霞館が完成すると、実父、実母とともに移る。後に江戸に移る。また、実父同様に細井平洲が師範となる。
莅戸善政の子・莅戸政以が寛政元年(1789年)に顕孝の用人、寛政2年(1790年)からは傳役を務める。また、服部正相が学問相手となる。
しかし、家督相続前の寛政6年(1794年)、疱瘡にかかって江戸藩邸にて19歳で死去した。代わって斉定(重定の孫)が治広の養嗣子となり、のち藩主に就任した。
逸話
編集鷹山が世子顕孝に藩主としての心構えを「為(な)せば成る。為(な)さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為(な)さぬなりけり」の一言で示した。
実子を失った鷹山は悲しむことはかりしれず、顕孝の遺骸が米沢城に着いたとき、「十年余り見しその夢はさめにけり軒端に伝う松風の声」と一首の悲しみの歌を捧げた。