三浦一雄

日本の官僚、政治家

三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 1963年1月30日[1])は、日本官僚政治家青森県三戸郡五戸町出身。父は五戸町長や青森県議会議員を務めた三浦道太郎[2][3]。また、祖父の三浦泉八十和田湖畔・宇樽部の開拓者として知られる[3]

三浦 一雄
みうら くにお
生年月日 1895年4月22日
出生地 日本の旗 日本青森県三戸郡五戸町
没年月日 (1963-01-30) 1963年1月30日(67歳没)
出身校 東京帝国大学

日本の旗 第26代農林大臣
内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1959年6月18日

選挙区 青森1区
当選回数 5回
在任期間 1952年10月1日 - 1963年1月30日

内閣 小磯内閣
在任期間 1944年7月22日 - 1944年7月29日

内閣 小磯内閣
在任期間 1944年7月22日 - 1945年4月7日

選挙区 青森1区
当選回数 1回
在任期間 1942年4月30日 - 1945年
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略歴

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1895年(明治28年)、青森県三戸郡五戸町に生まれる。仙台第二高等学校から東京帝国大学へ進学し、在学中に上杉慎吉を中心に東大に組織された全日本興国同志会に入会。同大学を卒業後、農商務省入省。同期に岸信介ら。

1925年(大正14年)に農商務省が商工省・農林省(現 農林水産省)へと分割されると農林省へ転籍し、農山漁村経済更生運動に深く関わり一時期企画院に出向した後に農林次官を最後に農林省を退官。1942年の翼賛選挙で政界へ転進した。

1944年(昭和19年)に小磯内閣が成立すると法制局長官を務め、一時期内閣書記官長を兼任。小磯内閣退陣後は大政翼賛会企画部長を務めるが終戦後直ぐに公職追放され、追放解除後の1952年の総選挙で政界復帰して第2次岸内閣で農林大臣を務めた。衆院議員在任中に死去。

栄典

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その他

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脚注

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  1. ^ 三浦一雄 | 近代日本人の肖像”. www.ndl.go.jp. 2020年5月27日閲覧。
  2. ^ a b 佐藤光則「能田多代子」『青森県人名事典』(東奥日報社、2002年)、p.541
  3. ^ a b 富沢知成「能田多代子」『きたおぅう人物伝 近代化への足跡』(デーリー東北新聞社、1995年)、pp.204-205
  4. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
議会
先代
牧野良三
  衆議院予算委員長
1955年 - 1957年
次代
山崎巖
公職
先代
赤城宗徳
  農林大臣
第26代:1958年 - 1959年
次代
福田赳夫
先代
森山鋭一
  法制局長官
第43代:1944年 - 1945年
次代
村瀬直養
先代
星野直樹
  内閣書記官長
第47代:1944年7月22日 - 7月29日
次代
田中武雄