滋野井公時
平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。滋野井実国の長男。従二位・参議。滋野井家2代。出家
(三条公時から転送)
滋野井 公時(しげのい きんとき)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。権大納言・滋野井実国の長男。官位は従二位・参議。滋野井家2代当主。
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 保元2年(1157年) |
死没 | 承久2年4月23日(1220年5月26日) |
改名 | 公雅(初名)→公輔→公時 |
別名 | 藤原公時、三条大納言 |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 | 父:滋野井実国、母:藤原家成の娘 |
兄弟 |
公時、藤原公清、賢忍、公全、粟田口忠良室 養兄弟:藤原公佐 |
妻 | 吉田経房の娘 |
子 | 実宣、実秋、実広、惟明親王妃 |
経歴
編集保元3年12月(1159年1月)僅か2歳にして従五位下に叙爵。仁安3年(1168年)従五位上に陞叙され、嘉応2年(1170年)侍従となる。
承安3年(1173年)正五位下に叙され、備中権介、右近衛少将、備中介を歴任し、安元3年(1177年)従四位下、治承5年(1181年)従四位上・備中権介に叙任。寿永2年(1183年)には正四位下に昇り、左近衛中将に任ぜられる。元暦2年(1185年)伊予守、文治4年(1188年)蔵人頭となる。文治5年(1189年)従三位・参議に叙任され公卿に列し、文治6年(1190年)備前権守、建久4年(1193年)正三位、建久6年(1195年)近江権守となるが同年4月に参議と中将を辞任。
建久9年(1198年)従二位となる。近江権守の任期が果てた後は散位となり、承元3年(1209年)に出家し、承久2年(1220年)4月23日に薨去。享年64。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載による。
- 保元3年12月17日(1159年1月8日):従五位下(御即位叙位。女御琮子給)
- 仁安3年(1168年)3月11日:従五位上(天皇自摂政閑院第遷幸内裏。本家賞。改名公輔)
- 嘉応2年(1170年)7月26日:侍従(十五人例始之)
- 承安3年(1173年)正月13日:正五位下(朝覲行幸賞。建春門院御給)、11月2日:復任侍従(母服解)
- 安元元年(1175年)正月22日:備中権介、12月8日:右近衛少将(御賀舞人賞。近衛次将及二八人例)
- 安元2年(1176年)正月30日:備中介
- 安元3年(1177年)正月24日:従四位下(右少将労。扱出叙位)
- 治承5年(1181年)正月5日:従四位上(臨時)、3月26日:備中権介
- 寿永2年(1183年)2月11日:復任(右少将備中権介。父中陰内)、2月21日:正四位下(朝覲行幸次。臨時。父服五旬中叙之)、12月21日(1184年2月4日):左近衛中将
- 元暦2年(1185年)正月20日:伊予守
- 文治4年(1188年)10月14日:蔵人頭
- 文治5年(1189年)7月11日:参議従三位(右近衛如元)
- 文治6年(1190年)正月24日:備前権守
- 建久4年(1193年)11月11日:正三位(日吉行幸行事賞)
- 建久6年(1195年)2月2日:近江権守、4月7日:辞参議中将
- 建久9年(1198年)11月21日:従二位(大嘗会国司賞)
- 承元3年(1209年)8月19日:出家
系譜
編集脚注
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