三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手一塁手外野手)。

三宅 宅三
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県倉敷市
生年月日 1921年2月22日
没年月日 (2006-04-16) 2006年4月16日(85歳没)
身長
体重
182 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1950年
初出場 1950年3月11日
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

経歴

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玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。

1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。1955年榎本喜八に一塁手の定位置を譲り外野手に専念。1956年までレギュラーを守るが、1957年には出場機会が減少し、同年限りで引退。

現役年数は8年と短いものの選球眼が良く、また長打力もあるため、時折チームの中軸を担い、3度の二桁本塁打を記録する等の活躍を見せた。引退後は大毎・東京・ロッテで打撃コーチ、スコアラー、スカウト、1987年から1996年まで中日で編成本部顧問を務めた。

2006年4月16日呼吸器不全のため東京都世田谷区の病院で死去[1]。85歳没。2005年の古巣・ロッテの日本一を見届けての死だった。

父親が倉敷市の市議会議員で、息子も政治家にするつもりで選挙で勝つため覚えやすい名前にしたことが名前の由来(なお、岡山県玉野市には同姓同名の市議が存在)。

ロッテのスカウト時代、台湾から来日した投手と養子縁組し、「三宅宗源」という日本名を命名してロッテに入団させている[1](その後読売ジャイアンツに移籍)。

選手としての特徴

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しゃくり上げる打法で高く遠くへ本塁打を放つ長距離打者であった[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1950 毎日 37 82 78 9 18 3 1 1 26 9 1 1 0 -- 4 -- 0 11 2 .231 .268 .333 .602
1951 88 306 278 45 78 11 2 8 117 39 19 8 4 -- 22 -- 0 12 9 .281 .333 .421 .754
1952 106 414 378 66 111 19 2 18 188 69 25 15 0 -- 32 -- 1 27 9 .294 .350 .497 .848
1953 113 420 377 55 103 17 1 14 164 63 32 10 1 -- 39 -- 0 22 17 .273 .341 .435 .776
1954 122 414 376 47 75 10 3 9 118 45 26 10 1 3 31 -- 1 34 13 .199 .262 .314 .576
1955 114 319 286 41 79 14 4 15 146 46 18 6 1 4 27 1 0 28 9 .276 .339 .510 .849
1956 110 313 274 35 75 19 6 7 127 37 2 8 5 5 28 0 1 27 5 .274 .343 .464 .807
1957 33 42 40 6 8 2 0 1 13 4 2 0 0 0 2 0 0 4 0 .200 .238 .325 .563
通算:8年 723 2310 2087 304 547 95 19 73 899 312 125 58 12 12 185 1 3 165 64 .262 .323 .431 .754
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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背番号

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  • 27 (1950年 - 1957年)
  • 53 (1958年 - 1959年)
  • 65 (1963年 - 1965年)

脚注

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  1. ^ a b 三宅宅三氏死去 プロ野球ロッテ元スカウト”. 共同通信 (2006年4月17日). 2011年9月25日閲覧。
  2. ^ 『プロ野球三国志』164頁

参考文献

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関連項目

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