三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日明治3年12月23日) - 1919年大正8年)2月11日)は、日本の教育者、元第二高等学校校長、元皇子傅育官長[1]

三好愛吉(中村唯一編「物外三好愛吉先生」(三好愛吉先生弔慰會、1931年より)
三好愛吉

略歴

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1871年2月12日(明治3年12月23日)に、村上(現新潟県村上市)に、村上藩士・三好義雄の次男として生まれる。村上中学に学び、1891年(明治24年)第一高等学校卒業、1895年(明治28年)東京帝国大学(現東京大学)哲学科を卒業する。

その後、京都真宗大学教授、新発田尋常中学校長を務め、また長野尋常中学(現長野県長野高等学校)を創設、初代校長となる。暖房費を節約して「神聖なるピアノ」を購入などのエピソードを残す。1900年(明治33年)、仙台の第二高等学校(現東北大学教養課程の前身)教授、のちに第5代校長となり、同校の「雄大剛健」の校風を樹立した。1904年(明治37年)、大須賀次郎、瀧川亀太郎玉虫一郎一とともに仙台孔子会を設立する。宮澤賢治が1899年(賢治25歳)より大沢温泉(花巻近くの湯治場)で開いていた夏期仏教講習会でも、実践倫理として三好が1902年に講師を務めている。

1915年(大正4年)(44歳)、「皇子傅育(ふいく)官長」に任命され、秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王の傅育に尽力した。イギリスイートン校ハーロー校のような教育をもって皇子教育にあたろうとしたが、志半ばにして1919年(大正8年)、当時世界的に流行したインフルエンザ(いわゆるスペイン風邪)のため47歳にて急逝し、村上市内の宝光寺に埋葬された。

仏教の上では森田悟由(曹洞宗の僧、永平寺六十四世)らに師事した。また、東京帝国大学に印度哲学講座を創設(1917年(大正6年))するため、安田善次郎に講座創設費の寄付を薦め、寄与した。印度哲学講座の実現により、村上専精(夏期仏教講習会でも講師を務めた)が初代教授に就任した(東京大学百年史、第二編第三章参照)。三好はさらに村上専精等と作った「六人會」として、東京大学に講堂を寄付するよう安田に進言した。これにより安田講堂が生まれた(安田が暗殺された翌1922年(大正11年)着工、1925年(大正14年)竣工)。ちなみに、渋沢栄一は安田が暗殺された後「彼(安田)のあれほどの力と資財を国家に用いていたなら」と惜しんだと伝えられるが、講堂や印哲を通じて彼の寄付は歴史に残ったことになる。

三好愛吉については、中村唯一編「物外三好愛吉先生」(三好愛吉先生弔慰會、1931年)という書物が刊行されているほか、教育者としての解説は、例えば唐澤富太郎(編著)「図説教育人物事典」(ぎょうせい、1984年)を参照。

栄典

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 中村唯一編「物外三好愛吉先生」(三好愛吉先生弔慰會、1931年)
  2. ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
公職
先代
丸尾錦作
  皇子傅育官長
1915年 - 1919年
次代
松浦寅三郎
先代
(新設)
長野県長野中学校
1899年 - 1900年
次代
沢田藤治
先代
(新設)
新潟県北蒲原郡新発田町外六十七箇町村学校組合立北蒲原尋常中学校
1897年 - 1899年
次代
広田一乗
その他の役職
先代
(新設)
私立東華高等女学校
1905年
私立東華女学校長
1904年 - 1905年
次代
深田憲治