三原紹心
?-1586, 戦国時代の武将
三原 紹心(みはら じょうしん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。紹心は法名。高橋紹運の家臣。本郷城(三原城)主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 明応4年(1495年)頃 |
死没 | 天正14年7月27日(1586年9月10日)) |
改名 | 新五郎親種?→右衛門大夫鑑種(『筑後国史』, p. 200, 屋山系図)→和泉守種栄[1]→昌林(号)→紹山(法名)→紹忍(紹心とも) |
別名 | 和泉入道[2](通称) |
官位 | 和泉守 |
主君 | 大友義鑑→大友宗麟→高橋紹運 |
氏族 | 三原氏 |
父母 | 三原種勝?(右馬頭親賢?[3]) |
子 | 清右衛門尉宗休(『筑後国史』, p. 200, 左右衛門大夫重種、民部少輔入道宗琢、種宗?) |
経歴
編集三原氏は筑後十五城の一角に数えられる筑後国の国人。大蔵氏族高橋氏の別流で高祖山城の原田氏と同族である。
筑後における大友氏直参家臣、通称「高一揆衆」「二四頭」の一人。豊饒永源(美作入道)と共に筑後守護代官として、大友氏の軍事、行政を担当した有力被官で、所領の打渡しなど重要な職務に当たった[4][5]。天文年間のものと思われる大友義鑑の高良山宛の「高良山鏡山文書」によれば、三原和泉守が高良社造営奉行を申付けられたとある[6]。
天文19年(1550年)、二階崩れの変で大友義鑑死後、大友義鎮に義鑑の死を弔うため薙髮の願いを出し、義鎮から昌林の名をもらった。と同時に三原氏の家督を子・民部少輔宗琢に譲った[1]。
天正14年(1586年)、薩摩国の島津氏の北伐(豊薩合戦)では、主君高橋紹運や子・前清右衛門尉宗休と共に岩屋城へ籠城(岩屋城の戦い)し、戦死した[7]。
伝承
編集文武両道の将であったとされる。書籍や伝記によっては「岩屋城の戦いにおいてきらびやかな入道姿に、四尺余りの大太刀を構え奮戦するが、衆寡敵せず、最後は辞世の句[9]を柱に書き付けると、島津軍に突撃し、島津兵もろとも谷底へ落ちたとされる。享年39。彼の死によって筑後三原氏は滅亡した」とされるものがある。
しかし、「柳河藩享保八年藩士系図・上」の三原伊兵衛系図によると紹心の家系はその後も三池藩転じて柳河藩で存続している。また 紹心は90代で戦死し、更に 紹心の息子である三原清右衛門尉宗休も岩屋城の戦いで戦死しており、同伝承は紹心と三原清右衛門尉宗休との混同の可能性が高い。
脚注
編集- ^ a b 橋本操六 1985.
- ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・上」の三原伊兵衛系図に『三原和泉入道紹心』とある
- ^ 久留米市市民文化部文化財保護課『小川区有中世文書』久留米市教育委員会〈久留米市文化財調査報告書〉、2017年、5,9頁。doi:10.24484/sitereports.64879。全国書誌番号:23026608 。
- ^ 『中世賀来氏史料集』 (PDF) p.60 。
- ^ 『筑後国史』, p. 201, 屋山系図.
- ^ 吉永正春 2010, p. 195.
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 岩屋合戦三原紹忍討死之事 P.465~466
- ^ 『筑後国史』, p. 200, 兵部少輔種連、山城守種徳、清右衛門、紹心?.
- ^ 「うつ太刀の かねのひゞきは 久かたの 天津空にも 聞えあぐべき」
参考文献
編集- 柳川市史編集委員会編『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』(福岡県柳川市、1996年発行)
- 矢野一貞 著 ほか『『筑後国史』』筑後遺籍刊行会〈中巻〉、1927年、200頁。doi:10.11501/1175327。全国書誌番号:47007095 。
- 吉永正春『筑後戦国史』(新装改訂版)海鳥社、2010年。ISBN 9784874157718 。
- 橋本操六「大友義鎮の剃髪と家臣団の動向」『大分縣地方史』第118巻、大分県地方史研究会、1985年6月、13-26頁、CRID 1050845762586216960、ISSN 0287-6809。