三井 礼子禮子、みつい れいこ、1905年明治38年)3月16日 - 1989年平成元年)1月13日)は、日本女性史研究者、歴史家

みつい れいこ

三井 礼子
生誕 三井禮子
1905年3月16日
東京府東京市
死没 (1989-01-13) 1989年1月13日(83歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 渡辺礼子
職業 女性史研究者、歴史家
著名な実績 三井高利・高平遺書の翻刻
代表作 『近代日本の女性』『現代婦人運動史年表』[1]
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来歴・人物

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東京市出身。(三井高棟三井家総領家当主〕)四女に生まれる。女子学習院高等科に進み、蒙古史や東洋歴史論などで著名な河野元三に師事すると1924年(大正13年)卒業。東京帝国大学文学部(現東京大学文学部)に聴講生として通いはじめマルクスエンゲルスに立脚する歴史を学ぶ[2][3]。同年に三井高篤と結婚後、1929年から4年余りを海外で過ごし、やはり海外赴任に帯同していた石本(加藤シヅエ)に出会う[2]

1946年昭和21年)民主主義科学者協会設立に参画すると、そのもとに婦人問題研究会を組織した。女性史の研究を続け講演を重ね[4]、のちに三井文庫の財団化に尽力、1965年(昭和40年)に財団法人が設立される[2]渡部義通(政治家、歴史学者)と再婚、堀見俊吉が1982年頃に渡辺に問い合わせ、神山茂夫ブランコ・ド・ヴケリッチ資料を望んだところ三井から複写が届き、それをヴケリッチの家族の山崎淑子に転送したというエピソードがある[注釈 1]

主な著作

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1930年代初頭に海外で暮らした折に加藤シヅエに出会い、1934年頃の帰国後に世界女性史・エンサイクロペディアの日本編編纂を加藤らと開始する[6]。このメンバーには、長谷川時雨らの参加もあった。女性解放の研究で執筆[7]と講演を続けたのち、三井文庫嘱託研究員として三井家[8][9][10][11]を中心に女性史[7]の研究をつづけた。

『近代日本の女性』(五月書房、1953年)[12][13][14]は、自由民権デモクラシーファシズム、戦争そして戦後の民主化、アプレゲールと、その中での工女婦人解放、女性の政治参加など、現代のジェンダー史論の基礎が収載されている。『現代婦人運動史年表』は、5年がかりでまとめた大作である[要出典]

監訳に『三井 : 日本における経済と政治の三百年』がある[15]

寄稿

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  • 書評「井上清著「日本女性史」」『読書倶楽部』第4巻第10号、読書研究会 (編)、東京 : 日本出版広告社、1949年11月、24-25頁。
  • 「母系制についてのいくつかの感想」『歴史学研究』通号191号、歴史学研究会号(編)、績文堂出版、1956年1月、45-49頁。doi:10.11501/3566121
  • 福田英子」『歴史評論 = Historical journal』第106号; 1959年6月号、歴史科学協議会、1959年6月、93-94頁。ISSN 0386-8907
  • 「婦人論の古典--特集・日本の婦人問題,その現状の検討」『教育評論』、東京 : アドバンテージサーバー、通号第123号、1962年3月、50-52頁。ISSN 0023-5997
  • 「女性史へのあゆみ--歴史への旅」『歴史評論 = Historical journal』第178号; 1965年6月号、歴史科学協議会 (編)、46-48頁。全国書誌番号:10232880doi:10.11501/10232880ISSN 0386-8907
  • 「〈女性史研究会〉の20年」『歴史評論 = Historical journal』第195号 ;1966年11月号、歴史科学協議会 (編)、81-88頁。
  • 「戦前の婦人解放史--主体性の成立と展開」『教育評論』通号: 201号、1967年、29-35頁。ISSN 0023-5997OCLC 5174262575
  • 村田静子、松本新八郎 (共著)「揺籃期の女性史研究(私の歴史研究) (女性論の今日<特集>)」『歴史評論』第443号、校倉書房、1987年、105-119頁。ISSN 03868907
  • 三井礼子『女性史の視座』総合女性史研究会 (編)、東京 : 吉川弘文館〈日本女性史論集 ; 1〉、1997年。全国書誌番号:98038518ISBN 4-642-01351-2

参考文献

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関連資料

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  • ジョン・G・ロバーツ、Roberts, John G.『三井 : 日本における経済と政治の三百年』、安藤良雄、三井禮子 (監訳)、ダイヤモンド社、1976年[15]
  • 「三井礼子」胡澎『戦時体制下日本の女性団体』莊嚴 (訳)、こぶし書房、2018年、24頁、27頁。全国書誌番号:23082827

脚注

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注釈

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  1. ^ 神山茂夫はゾルゲ事件に連座し網走刑務所で服役し命を落とした経緯を「ブランコ・ド・ヴケリッチの獄死に関する網走刑務所調査報告書」にまとめた[5]

出典

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  1. ^ 歴史評論 1963, p. 79.
  2. ^ a b c 三井と女性たちの活躍(後編)”. www.mitsuipr.com. 2020年3月14日閲覧。
  3. ^ 十一 大正デモクラシーのひとつの頂点―三井礼子さんの思い出― 一九二四年」『講座女性』第5巻、三一書房、1958年、0096.jp2、2020年3月14日閲覧 国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館内/図書館送信
  4. ^ 女性文化人の面影"三井礼子女史"」『女性教養』9月(260)、日本女子社会教育会、1960年、11頁、doi:10.11501/2735281ISSN 0918-0605 
  5. ^ 渡部富哉. “ゾルゲ事件とヴケリッチの真実(2/2)”. ちきゅう座. 2020年3月14日閲覧。 “この神山茂夫の「ブランコ・ド・ヴケリッチの獄死に関する網走刑務所調査報告書」は堀見俊吉(注、戦前、尾崎秀実の秘書をつとめたことがあり、戦中は予防拘禁所に拘禁され、図南奉公義勇団員としてボルネオの大和農場に派遣され、九死に一生を得て帰還し、戦後、朝日新聞記者となる)が、渡辺礼子(板橋区)より郵送されたもので、郵便局の消印によると02、2、3「板橋北」の消印(中略)「渡部先生」とは渡部義通(歴史学者)のことを意味し、「礼子」とは三井礼子(渡部義通の妻)のことである。”
  6. ^ 三井と女性たちの活躍(後編)”. www.mitsuipr.com. 三井広報委員会. 2020年3月14日閲覧。
  7. ^ a b 現代女性十二講 1950, pp. 3-.
  8. ^ 三井文庫論叢 1967, pp. 261ー284.
  9. ^ 三井文庫論叢 1968, pp. 289–332.
  10. ^ 三井文庫論叢 1969, pp. 215–262.
  11. ^ 安岡 1979, pp. 113–127.
  12. ^ 近代日本の女性 1953.
  13. ^ 三井礼子「近代日本の女性」『出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌』第24号 (229) 3月下旬号、1953年3月21日、22-23頁、doi:10.11501/10231144ISSN 0386-2003全国書誌番号:00011083 
  14. ^ 『講座女性』第5巻、三一書房、1958年、184頁、doi:10.11501/3035126 
  15. ^ a b 原書情報 Roberts, John G (1973) (英語). Mitsui: three centuries of Japanese business. New York; Tokyo: Weatherhill. ISBN 978-0-8348-0080-9. OCLC 462186937. https://www.worldcat.org/title/mitsui-three-centuries-of-japanese-business/oclc/462186937?referer=br&ht=edition 

関連項目

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外部リンク

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