丁日昌
丁 日昌(てい じつしょう、Ding Richang、1823年 - 1882年)は、中国清末の軍人・官僚。字は禹生または雨生、号は持静。潮州府豊順県の出身。洋務運動の中心人物の一人。
生涯
編集20歳で秀才となり、郷試には合格しなかったが、恵潮嘉道の李璋煜が記述文章を見て幕僚に招聘した。咸豊4年(1854年)、太平天国軍が潮州府を攻撃したが計略で撃退に成功した。咸豊7年(1857年)に軍功で瓊州府儒学訓導に任命され、次いで江西省廬陵県の知県になるが、太平天国軍の攻撃を受けて陥落し、免職となった。咸豊11年(1861年)から湘軍を率いる曽国藩の幕僚となって水軍の準備に協力した。
同治3年(1864年)に蘇淞太兵備道に、同治4年(1865年)には両淮塩運使に就任した。同治6年(1867年)には江蘇承布政使、江蘇巡撫に昇進、光緒元年(1875年)に福州船政大臣・福建巡撫となった。在任中には北洋・南洋・東洋の3つの海軍を建設して分担して国防に当たることを主張し、外国人を招いて技術指導にあたらせた。光緒2年(1876年)に台湾で炭鉱を開き、中国で初めての電線を引いている。また『海難救護章程』を制定した。
光緒3年(1877年)に病で故郷に帰ったが、光緒4年(1878年)には南洋艦隊の指揮を命じられて、総理各国事務衙門大臣も兼任した。政務の余暇には読書を好み、蔵書家としても知られた。
政策
編集著作
編集- 『丁禹生政書』
- 『撫呉公牘』
- 『百蘭山館詩集』
- 『百蘭山館政書』
- 『持静斎書目』
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