一向一揆
一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗[1])の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。
概要
編集浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆のことである。本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如が言う「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。
1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼしたことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。
反面、一向一揆を起こした寺院・僧侶らは世俗領域の領主・支配者に従わない政治的動きを示しており、織田信長が一向一揆に対して非戦闘員の虐殺を含めた殲滅戦を行った背景として、彼らが織田政権の宗教政策に対立する存在であるとともに、その活動が宗教者として失格であることを広く内外に示すためだったのではないか、とする見解も出されている[2][3]。
永正3年(1506年)、加賀一向一揆は他の一向一揆と共同で、越前の朝倉氏に攻め込んだ。大規模な戦となり(九頭竜川の戦い)、越前吉崎御坊が破壊された。
天文24年(1555年)、肥後相良氏が禁止令を出す(相良氏法度)。
元亀3年(1572年)9月初旬に越中国尻垂坂(現 富山県富山市西新庄)において、上杉謙信軍が加賀一向一揆・越中一向一揆連合を破った。
一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。
しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。 1582年(天正10年)3月、加賀一向一揆最後の拠点、鳥越城が落城し終結した。
主な一向一揆
編集注釈
編集参考文献
編集- 新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第2巻、1988年3月、622-623頁。
- 門屋光昭「東北の「隠し念仏」と南九州の「隠れ念仏」」『南山大学人類学研究所通信』第9号、2001年。
- 竹間芳明著、日本史史料研究会監修『戦国時代と一向一揆』文学通信、2021年5月。
関連項目
編集外部リンク
編集- 『一向一揆』 - コトバンク
- 一向一揆 | NHK for School
- 一向一揆/Web版尼崎地域史事典『apedia』
- 京都の駅前にはなぜ2つの「本願寺」があるのか? 織田信長と「一向一揆」の抗争(その3)(1/4) | JBpress (ジェイビープレス)