一井 貞政(いちのい さだまさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将[1]

 
一井貞政
時代 鎌倉時代後期-南北朝時代
生誕 不明
死没 延元2年/建武4年3月6日[1]1337年4月7日
別名 堀口貞政、孫三郎[2]
官位 民部権大輔[2]大蔵大輔[3]
主君 新田義貞
氏族 清和源氏新田氏堀口氏一井氏
父母 父:堀口家貞
兄弟 堀口貞義貞政尾島貞昭
政家
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生涯

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新田氏の一族である堀口家貞の次子。名字の一井は上野国新田郡新田荘内の一井郷(現太田市新田市野井)を領したことに由来する[4]元弘3年(1333年)5月、惣領家新田義貞の挙兵に従い、鎌倉攻めに加わる[1]。『太平記』には義貞の挙兵に参集した新田一族の中に堀口貞満の舎弟四郎行義の名がみえ、この行義が貞政のことと考えられる[5]

後醍醐天皇建武の新政では、武者所一番頭人新田義顕のもとで寄人になっている(『建武記[3])。新田一門の中では堀口貞義(武者所二番頭人)、江田行義(三番頭人)、脇屋義治(五番頭人)らに次ぐ高い地位を占めていたと考えられる[4]

新田義貞は建武政権下で上野・越後播磨守護に任ぜられたが、貞政はこのうち越後の守護代を務めたとされる。建武2年(1335年)に越後国内の武士に対して軍勢催促状を発していることから、貞政は義貞の持つ越後守護としての権限を代行していたと思われる[6]

建武政権崩壊後は義貞に伴い北陸に移り、越前金ヶ崎城に拠った。しかし同城は足利方の斯波高経高師泰らの大軍に包囲されて孤立し、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、尊良親王、新田義顕、そして子息・政家と共に自害した[4]

脚注

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『一井貞政』 - コトバンク
  2. ^ a b 『新田族譜』34頁(国立国会図書館デジタルコレクション).
  3. ^ a b 『大日本史料』6編3冊331-333頁.
  4. ^ a b c 本郷 1998.
  5. ^ 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館、140頁
  6. ^ 『新潟県史』第二章第一節、172頁

参考文献

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  • 本郷和人新田義貞麾下の一部将と室町幕府のある右筆について<史料紹介>」『東京大学史料編纂所研究紀要』第8号、東京大学史料編纂所、1998年、135-139頁、ISSN 0917-2416NAID 110000539024 

関連項目

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