ワシリー・レオンチェフ

ソビエト連邦出身の経済学者

ワシリー・ワシーリエヴィチ・レオンチェフロシア語: Васи́лий Васи́льевич Лео́нтьев, 英語: Wassily Leontief, 1905年8月5日 - 1999年2月5日)はソビエト連邦出身の経済学者1973年に投入産出分析(産業連関分析)の研究でノーベル経済学賞受賞。レオンチエフ[1]とも。

ワシリー・レオンチェフ
生誕 ワシリー・レオンチェフ
(1905-08-05) 1905年8月5日
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン
死没 1999年2月5日(1999-02-05)(93歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
市民権 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 産業連関表
計量経済学
研究機関 ニューヨーク大学
ハーバード大学
出身校 フンボルト大学 (Ph.D.)
レニングラード大学 (文学士、経済学修士M.A.)
博士課程
指導教員
Ladislaus Bortkiewicz
ヴェルナー・ゾンバルト
博士課程
指導学生
ヴァーノン・スミス
ロバート・ソロー
ポール・サミュエルソン
カレン・ポレンスキー
ハイマン・ミンスキー
Khodadad Farmanfarmaian
主な業績 投入産出分析、レオンチェフのパラドックス
影響を
与えた人物
ジョージ・ダンチッグ
西川俊作
主な受賞歴 ノーベル経済学賞(1973年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1973年
受賞部門:ノーベル経済学賞
受賞理由:投入産出分析の発展と、重要な経済問題に対する投入産出分析の応用を称えて

経歴

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生い立ち

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ドイツ帝国ミュンヘンで、経済学教授で同名の父ワシリー・ワシーリエヴィチ・レオンチェフとユダヤ系の母ズラータ・ベンツィオノヴナ(のちエヴゲニヤ・ボリソヴナ)・ベケルとの間に生まれた。生家は1741年からサンクトペテルブルクに住んでいた古儀式派の家系であった。

その後ロシアに戻り、ロシア革命後の1921年に15歳でレニングラード大学に入学。最初は哲学社会学を学ぶが、後に経済学を学び1925年に19歳で経済学修士号(文学修士と同等)を取得した。

1920年代のソ連では国外に移動することは難しかったものの、致死的な肉腫を発症しているとの診断(のち誤診と判明)をチェーカーが認めたことで、1925年にソ連を出国。ベルリンフンボルト大学大学院に学び、1927年からはクリスティアン・アルブレヒト大学キール校キール世界経済学研究所ドイツ語版に移り統計による需要供給曲線の導出を研究。1929年に「投入産出分析」の学位論文で博士号を取得した。

博士号取得後ドイツ鉄道省中国支援のアドバイザーとして中華民国に派遣され、1931年に渡。経済調査の米国連邦事務局勤務を経て、1932年ハーバード大学講師。同じ年に詩人のエステル・マークスと結婚し、1936年に夫妻のただ一人の子供であるスヴェトラナ・レオンチェフ・アルパースが生まれる。

1946年にハーバード大学経済学教授となり、1948年にハーバード経済調査事業を設立して所長に就任(1973年まで在任)。1965年にはハーバード協会議長・1970年にはアメリカ経済学会会長を歴任した。1975年ニューヨーク大学教授に就任し1999年に死去するまでその座に在った。

研究

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栄典

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  • 投入産出分析(産業連関分析)を発展させ、その手法を彫琢して重要な経済上の問題に適用したことによって、1973年にノーベル経済学賞を受賞した。
    • ノーベル経済学賞を受賞する前のエピソードとして、ニューヨーク・タイムズは「レオンチェフは、ニューヨークのエレベーターで『ロシア名のハーバードの経済学者が受賞した』という話を耳にし、興奮で顔を紅潮させ急いで新聞を買いに走ったが、そこで見たのはクズネッツの名前だったという」という逸話を紹介している[2]
  • 日本の学界・政府・産業界と特に関係が深く、このため1985年日本政府から特別叙勲の栄誉に浴している。環太平洋産業連関分析学会設立の指導にもあたった。

趣味

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著書

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脚注

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  1. ^ レオンチエフ』 - コトバンク
  2. ^ 日本経済新聞社編著 『現代経済学の巨人たち-20世紀の人・時代・思想』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、243頁。

外部リンク

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