ロッツ・カーロイ
ロッツ・カーロイ(Lotz Károly、ドイツ語名:Karl Anton Paul Lotz、1833年12月16日 - 1904年10月13日)はドイツ生まれのハンガリーの画家である。
ロッツ・カーロイ Lotz Károly | |
---|---|
自画像 (1870年代初め) | |
生誕 |
1833年12月16日 ヘッセン=ホムブルク方伯領、バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ |
死没 |
1904年10月13日 オーストリア=ハンガリー帝国、ブダペスト |
略歴
編集ヘッセン大公国のバート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエで生まれた。父親はヘッセン=ダルムシュタット方伯一族の侍従長を務めたドイツ人で、1817年にハンガリーで、薬剤師の娘と知り合い1820年に結婚した。末子のロッツ・カーロイを含む8人の子供が生まれた。1837年に父親が亡くなった後、4歳のロッツ・カーロイとその兄弟は母親とハンガリーのペシュトに移った。
ペシュトの学校で学び、絵の修行を始め、ブダペストに最初に絵画学校を開いたベネツィア出身の画家、ジャコブ・マラストーニ (Jakab Marastoni: 1804-1860) の私立美術学校で学び、ブダペストの画家、ウェベル・ヘンリック (Weber Henrik: 1818–1866) にも学んだ。
ウィーンに移り、歴史画家のカール・ラールに学んだ。カール・ラールの助手として、多くの装飾画を描いた後、独立し、ハンガリーの風景画を描き、ブダペストのハンガリー国立博物館やハンガリー国会議事堂、ハンガリー国立歌劇場、聖イシュトヴァーン大聖堂などの壁画、装飾画を描いた。
画家のヤコベイ・カーロイ (Jakobey Károly: 1826-1891) の妻、オーノディ・アンナと1885年から同棲した。1890年にアンナの離婚が成立し、1891年にヤコベイ・カーロイが亡くなった後、結婚した。
1882年からブダペストの美術学校で教授を務め、女性のための美術学校の校長も務めた。
1896年にムンカーチ・ミハーイとジュラ・ベンツールとともにハンガリー聖イシュトヴァーン勲章 (Magyar Királyi Szent István-rend) を受勲した。1904年にブダペストで没した。
作品
編集-
[[]]ハンガリー科学アカデミーの壁画
-
大雨の中の馬
-
ハンガリー騎兵(ユサール)のキャンプ
-
水浴の後
-
Kornélia Lotzの肖像
-
Young Girl with Coral Earrings
参考文献
編集- Constantin von Wurzbach: Lotz, Karl. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 16. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1867, S. 64 f.
- Benda: Lotz Károly. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 5, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1972, S. 332.
- Tragor Ignác, Vác műemlékei és művészei, Vác, 1930, 89-90.
- Ybl Ervin: Lotz Károly élete és művészete, Magyar Tudományos Akadémia, Budapest, 1938.
- Barát Endre: Alvó Vénusz. Regény Lotz Károly életéről, Corvina, Budapest, 1974.