レヴァン・ダヴィドヴィチ(ダヴィティス・ゼ)・ゴゴベリゼロシア語: Леван Давидович Гогоберидзеグルジア語: ლევან დავითის ძე ღოღობერიძე1896年1月21日 - 1937年3月21日)は、グルジア人のボリシェヴィキ。

レヴァン・ダヴィドヴィチ・ゴゴベリゼ
Леван Давидович Гогоберидзе
ლევან დავითის ძე ღოღობერიძე
生年月日 (1896-01-21) 1896年1月21日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国クタイス県ロシア語版クタイス郡プリドナーン・ジハイシ
没年月日 (1937-03-21) 1937年3月21日(41歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
グルジア・ソビエト社会主義共和国トビリシ
出身校 サンクトペテルブルク工科大学
赤色教授学院ロシア語版
所属政党 ボリシェヴィキ
配偶者 ヌツァ
子女 ラナ英語版

グルジア共産党英語版)中央委員会
第一書記
在任期間 1930年5月6日 - 11月20日

グルジア共産党(ボ)アジャリア州委員会
責任書記
在任期間 1924年 - 1925年

人民委員会議副議長
在任期間 1923年 - 1924年

チフリス革命委員会議長
在任期間 1921年12月24日 - 1922年1月12日
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生涯

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1896年1月21日(ユリウス暦9日)、ロシア帝国クタイス県ロシア語版プリドナーン・ジハイシの貴族の家に生まれた[1]サンクトペテルブルク工科大学に学び、1916年からボリシェヴィキに加盟した[2]二月革命後はジヴィズリスク・ソビエト副議長および議長を務め[2]、『カフカースキー・ラボーチー』(ka) 紙編集局で勤務[3]。翌1918年2月からバクーで活動し、11月にはチフリスザカフカース党組織の会議に出席したが、メンシェヴィキ当局に逮捕されバクーに追放された[3]。翌12月から党バクー委員会局員、カフカース地方委メンバーを務め、翌1919年5月にはバクーでミュサヴァト党政権に反対するストライキの主導者の一人となったが[3]、9月にはアゼルバイジャン民主共和国軍将校セイドベコフに銃撃されて重傷を負った(同席の同志ミルファタグ・̥ムセヴィとアシュム・アリエフは死亡)[4]

1920年末には党ニジニ・ノヴゴロド県ロシア語版委幹部会メンバー[3]、翌1921年12月24日から1922年1月12日まで[5]チフリス革命委議長、1921年にグルジア共産党英語版チフリス委責任書記、1923年から翌1924年まではグルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議副議長、同年から翌1925年までグルジア共産党アジャリア州委責任書記、同年から翌1926年までは駐フランスソビエト連邦全権代理、同年から1930年5月6日まではグルジア共産党中央委書記、同日から11月20日まで第一書記を務めた[2]。1930年から1934年まで赤色教授学院ロシア語版で学び、同時に連邦供給人民委員部 (ru) でも働いた[1]。1934年5月からはロシア共和国エイスクの党書記、翌1935年1月からは「ロッセリマシュロシア語版」工場の党書記[3]、翌1936年12月まではロストフ・ナ・ドヌ市スターリン地区委責任書記でもあった[2]

第13回ロシア語版第15回ロシア語版第16回ロシア語版の連邦党大会にも出席したが[1]、1936年12月14日に逮捕され、翌1937年3月21日にトビリシで銃殺された[2]。その後、名誉回復ロシア語版がなされた[3]

グルジア初、そしてソ連初の女性映画監督であった妻ヌツァ (ka) も逮捕され、10年間を収容所で過ごした[6]。娘ラナ英語版もまた映画監督となった[7]

脚注

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  1. ^ a b c Гогоберидзе // Газлифт — Гоголево. — М. : Советская энциклопедия, 1971. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 6).
  2. ^ a b c d e Гогоберидзе Леван Давидович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月12日閲覧。
  3. ^ a b c d e f ГОГОБЕРИДЗЕ / С. И. Елкина // ГААГА — ДВИН. — М. : Советская энциклопедия, 1963. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 4).
  4. ^ ア・イ・ミコヤン 著、小川政邦、上田津 訳『バクー・コンミューン時代』 ミコヤン回想録 1、河出書房新社、1973年(原著1972年)、570-571頁。 NCID BN06822788 
  5. ^ პავლიაშვილი, ვანო. “დედაქალაქის „მმართველობითი ანატომია“”. მთავარი. https://www.versia.ge/index.php/2013-07-31-11-22-32/item/4591-%25E1%2583%2593%25E1%2583%2594%25E1%2583%2593%25E1%2583%2590%25E1%2583%25A5%25E1%2583%2590%25E1%2583%259A%25E1%2583%2590%25E1%2583%25A5%25E1%2583%2598%25E1%2583%25A1-%25E2%2580%259E%25E1%2583%259B%25E1%2583%259B%25E1%2583%2590%25E1%2583%25A0%25E1%2583%2597%25E1%2583%2595%25E1%2583%2594%25E1%2583%259A%25E1%2583%259D%25E1%2583%2591%25E1%2583%2598%25E1%2583%2597%25E1%2583%2598-%25E1%2583%2590%25E1%2583%259C%25E1%2583%2590%25E1%2583%25A2%25E1%2583%259D%25E1%2583%259B%25E1%2583%2598%25E1%2583%2590%25E2%2580%259C&xid=17259,15700023,15700124,15700149,15700168,15700173,15700186,15700201&usg=ALkJrhgM7L8ixDGyk-lKnXA6flzRxTf8Ww 2018年4月12日閲覧。 
  6. ^ ცოფურაშვილი, თამარ (2016年6月4日). “ნუცა /ნინო/ ღოღობერიძე”. Feminism and Gender Democracy. 2018年4月12日閲覧。
  7. ^ Словинская А. (2016年11月17日). “Четыре грузинских фильма вернулись домой”. Эхо Кавказа. RFE/RL. https://www.ekhokavkaza.com/a/28124586.html 2018年4月12日閲覧。 
党職
先代
ミハイル・カヒアニ
  グルジア共産党(ボ)中央委員会第一書記
1930年5月6日 - 11月20日
次代
サムソン・マムリヤ
先代
ニコライ・スヴァニゼ
  グルジア共産党(ボ)アジャリア州委員会責任書記
1924年 - 1925年
次代
ニコライ・アキルタヴァ
公職
先代
サーシャ・ゲゲチコリ
  チフリス革命委員会議長
1921年12月24日 - 1922年1月12日
次代
ラド・ドゥンバゼ
市ソビエト執行委員会議長