ルドルフ・キンスキー
ルドルフ・フュルスト(侯爵)・キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ(Rudolf Fürst Kinsky von Wchinitz und Tettau, 1802年3月30日 - 1836年1月27日)は、ボヘミアの上級貴族キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ侯爵家の第6代当主。全名はルドルフ・ヨーゼフ・アントン・フェルディナント・フランツ・レオンハルト・ヴィルヘルム・グイド(Rudolf Josef Anton Ferdinand Franz Leonhard Wilhelm Guido)。
ルドルフ・キンスキー Rudolf Kinsky | |
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第6代キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ侯 | |
キンスキー侯ルドルフ、ヨーゼフ・クリーフーバー画 | |
在位 | 1812年 - 1836年 |
出生 |
1802年3月30日 ハプスブルク帝国、プラハ |
死去 |
1836年1月27日(33歳没) オーストリア帝国、リンツ |
配偶者 | ヴィルヘルミーネ・フォン・コロレード=マンスフェルト |
子女 | フェルディナント・ボナフェントゥラ 他 |
家名 | キンスキー家 |
父親 | キンスキー侯フェルディナント |
母親 | ケルペン男爵夫人マリー・シャルロッテ |
生涯
編集キンスキー侯フェルディナント(1781年 - 1812年)とその妻のケルペン男爵夫人マリー・シャルロッテ(1782年 - 1841年)の間の長男として生まれ、1812年の父の落馬事故死と同時に侯爵家の家督を継いだ。ボヘミアン・スイス(Böhmische Schweiz)の険しい山岳地帯を切り開き、主にディッタースバッハ(現在のチェコ領ウースチー州イェトジホヴィツェ)の開発を進めた。イェトジホヴィツェの小山ルドルフシュタイン(現在はルドルフヴ・カーメン/Rudolfův kámen)はルドルフに因んで名づけられた。
1825年5月12日にプラハにおいて、コロレード=マンスフェルト伯爵夫人ヴィルヘルミーネ(1804年 - 1871年)と結婚し、嫡男のフェルディナント・ボナフェントゥラ(1834年 - 1902年)をはじめ1男5女の6人の子女をもうけた。
参考文献
編集- Eintrag in Constantin von Wurzbach: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich, Bd. 11, Wien 1864, S. 302f.