ルイーズ・ダルトワ
ルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワ(フランス語: Louise Marie Thérèse d'Artois, 1819年9月21日 - 1864年2月1日)は復古ブルボン朝期のフランスの王族で、パルマ公カルロ3世の妃。
ルイーザ・マリーア Luisa Maria | |
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パルマ公妃 | |
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在位 | 1849年5月17日 - 1854年3月27日 |
出生 |
1819年9月21日 フランス王国、パリ、エリゼ宮 |
死去 |
1864年2月1日(44歳没) オーストリア帝国 ロンバルド=ヴェネト王国、ヴェネツィア、パラッツォ・ジュスティニアン |
埋葬 | オーストリア帝国、ノヴァ・ゴリツァ、コスタニエヴィツァ修道院(en) |
結婚 | 1845年11月10日 フロースドルフ城 |
配偶者 | カルロ3世 |
子女 |
マルゲリータ ロベルト1世 アリーチェ エンリーコ |
家名 | ブルボン家 |
父親 | シャルル・フェルディナン・ダルトワ |
母親 | マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
イタリア語名はルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ=フランチア(Luisa Maria di Borbone-Francia)。
生涯
編集シャルル10世の次男シャルル・フェルディナン・ダルトワとその妻で両シチリア王フランチェスコ1世の娘であるマリー・カロリーヌの間の長女としてパリのエリゼ宮で生まれた。弟はフランス王位請求者アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)。
1830年の七月革命勃発後、祖父シャルル10世、伯父アングレーム公夫妻、弟アンリらと共にフランスから亡命した。母マリー・カロリーヌは1832年、ルイ・フィリップ1世を追い落として息子アンリを王位につけようとクーデターを起こそうとした際に逮捕され、エットーレ・ルケージ・パッリ伯爵との秘密結婚が明らかとなり、それに怒ったシャルル10世によりブルボン家から縁を切られた。そのため、ルイーズとアンリは幼い頃から懐いていた伯母のアングレーム公夫人マリー・テレーズに養育された。
1845年に亡命先のゴリツィアのグラッファンベルク城からパルマ公カルロ3世に嫁ぎ、最後のパルマ公ロベルト1世など4人の子供をもうけた。
1854年に夫カルロ3世が暗殺された後、息子ロベルト1世の摂政となるが、1859年に起こった第二次イタリア独立戦争により、息子とともにその地位を追われると、オーストリアの保護を求めてヴェネツィアに逃がれた。その後、様々な復権運動が起きたものの、全て失敗に終わり、1864年にヴェネツィアのパラッツォ・ジュスティニアンで死去した。
子女
編集- マルゲリータ(1847年 - 1893年) - カルリスタのスペイン王位請求者マドリード公カルロスと結婚
- ロベルト1世(1848年 - 1907年) - 最後のパルマ公
- アリーチェ(1849年 - 1935年) - トスカーナ大公フェルディナンド4世と結婚
- エンリーコ(1851年 - 1905年) - バルディ伯
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パルマ公妃ルイーズと子供たち(1860年)
参考文献
編集- 『マリー・テレーズ』スーザン・ネーゲル著 櫻井郁恵訳(近代文芸社、2009年)
外部リンク
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ルイーズ・ダルトワ
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王室の称号 | ||
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先代 マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア |
パルマ公妃 1849年5月17日 – 1854年3月27日 |
次代 マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(名目上) |