ルイ・ド・フレシネ
ルイ・ド・フレシネ(Louis Claude de Saulces de Freycinet、1779年8月7日 - 1841年8月18日)はフランスの海軍士官である。太平洋の探検航海を行った、ウラニー号(Uranie)の船長である。
略歴
編集ドローム県のモンテリマールに3人兄弟の2番目の男子に生まれた。2歳年上の兄、ルイ・アンリ・ド・フレシネも海軍で働き、後にレユニオンの総督などを務める人物である。弟の子が第三共和制時代に首相を務めるシャルル・ド・フレシネである。
1793年にフランス海軍に入隊し、イギリス海軍とのいくつかの海戦に参加した。1800年に兄とオーストラリア南岸および南西岸の調査航海に参加した。この航海は博物学者、ニコラ・ボーダンの指揮によるもので、その少し前にオーストラリアをイギリスの航海者、マシュー・フリンダースが調査している[1]。1803年にニコラ・ボーダンが没した後、フレシネが海図の製作を引き継ぎ、1805年にパリに戻り、海図の製作と、新しい探検航海の計画作成に従事し、1811年にオーストラリア沿岸の地図を出版し、これはフリンダースの海図の出版よりも3年早いものとなった。旅行記の執筆も行い、"Voyage de découvertes aux terres australes"は1807年から1816年までパリで出版された[2]。
1817年に太平洋探検航海を行う、ウラニー号の船長に任じられ、水路学者のルイ・イジドール・デュプレ(Louis Isidore Duperrey)や博物画家のジャック・アラゴー(Jacques Arago)やアドリアン・トーネー(Adrien Taunay)らが隊員に加わった。リオデジャネイロを経由した太平洋に入り、重力測定、地磁気測定、天体観測、気象観測のほか民俗学、博物学標本の収集を行った。3年間、太平洋を航海し、オーストラリア、マリアナ諸島、ハワイ諸島や、その他の太平洋諸島、南アメリカなどを訪れ、1820年2月、帰路のフォークランド諸島でウラニー号が難破し、失われたにもかかわらず、多くの分野の博物標本、訪れた場所に関する膨大な記録や、図版や地図をフランスに持ち帰った。
探検の記録はフレシネが監修して、"Voyage autour du monde fait par ordre du Roi sur les corvettes de S. M. l'Uranie et la Physicienne, pendant les années 1817, 1818, 1819 et 1820"として13巻の四つ折り版の本文と4巻のフォリオ版の図版・地図とともに刊行された。
1825年にフランス科学アカデミーの会員にえらばれ、パリ地理学会の創立者の一人となった[3]。
"Voyage autour du monde..."の図版
編集参考文献
編集- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Freycinet, Louis Claude Desaulses de". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ Fornasiero, F. J.; Peter Monteath; John West-Sooby (2004). Encountering Terra Australis: the Australian voyages of Nicolas Baudin and Matthew Flinders. Wakefield Press. pp. 296ff.. ISBN 978-1-86254-625-7 12 January 2011閲覧。
- ^ “The French Connection”. International League of Antiquarian Booksellers. 12 January 2011閲覧。
- ^ Château de Freycinet.