リヴィウ - ブロディ線
リヴィウ - ブロディ線(ウクライナ語: Залізнична Львів–Броди)はウクライナで複線の電化された、幹線鉄道の一つで、西ウクライナの中心都市リヴィウと北東方向にブロディを結ぶ。すべての区間で1520 mmの広軌が採択されている。ウクライナ鉄道、特にリヴィウ鉄道(ウクライナ語: Львівська залізниця)がこの路線の運営を担当している。
リヴィウ - ブロディ線 | |
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基本情報 | |
国 | ウクライナ |
所在地 | リヴィウ州 |
起点 | リヴィウ駅 |
終点 | ブロディ駅 |
路線諸元 | |
軌間 | 1520 mm(広軌) |
電化区間 | 全区間 |
電化方式 | 25 kV / 50 Hz(交流) |
停車場・施設・接続路線 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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キロメートル数は1944年の基準 |
歴史
編集ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道
編集1846年すでにクラカウとブローディの間に鉄道建設が計画されたが、政治的な不安定のため実行されなかった[1]。レンベルグ - ブローディ区間は1869年7月12日に帝国特認ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道(ドイツ語: k.k. priv. Galizische Carl Ludwig-Bahn, CLB)により開通された[2]。当時オーストリアに属したガリツィアの建設許可は、1867年5月15日にCLBに与えられた[3]。
オーストリアとロシアの国境では単線の鉄道連結が1873年8月28日に実現された。標準軌1435 mmおよびロシア広軌1520 mmの線路が当時に両国で最も近い国境駅まで伸びていた[2]。
ポーランド国鉄と占領国の鉄道
編集第一次世界大戦の終結後、この路線はポーランド国鉄に引き受けられた。ロシアの広軌路線はポーランド国内で標準軌に改軌されて、1939年当時にこの路線とクラスネ - スドルブニウ(ポーランド語: Zdołbunów)区間は一つの時刻表番号で統合された[4]。
1939年の第二次世界大戦の開始直後にソビエト連邦がポーランド東部を占領したことで、この路線はソビエト連邦鉄道(ロシア語: Советские железные дороги, СЖД)の所有となった。線路のゲージ変更はロシアの広軌(1520 mm)ですぐに開始された。しかし、1941年にドイツがソビエト連邦を攻撃して、この路線の軌間は1435 mmとして戻された。当時にこの路線はドイツ国営鉄道傘下の東部鉄道(ドイツ語: Ostbahn)に割り当てられた[5]。
ソ連鉄道とウクライナ鉄道
編集戦争の終結後、この路線はソ連鉄道によって取り戻されて、全体の区間は広軌に改修された。1991年にこの路線はウクライナ鉄道の路線網に組み入られた。
参考文献
編集- Bernhard Neuner (2002) (ドイツ語). Bibliographie der österreichischen Eisenbahnen von den Anfängen bis 1918. Band 2. Wien: Walter Drew Verlag. ISBN 3-901949-00-3
- Hermann Strach (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Oesterreichisch-Ungarns von den ersten Anfängen bis zum Jahre 1867. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 1.1. Wien / Teschen / Leipzig: Karl Prochaska. pp. 73–503
- Ignaz Konta (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Oesterreichs vom Jahre 1867 bis zur Gegenwart. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 1.2. Wien / Teschen / Leipzig: Karl Prochaska. pp. 1–426
外部リンク
編集注釈・出典
編集- ^ H. Strach: 1898, Band 1.1, p. 298
- ^ a b I. Konta: 1898, Band 1.2, pp. 31, 32
- ^ Reichsgesetzblatt von 1867, Nr. 88, Seite 189
- ^ Rozkład Polska, lato 1939 - Tab. 405: Lwów – Krasne – Zdołbunów
- ^ “Deutsches Kursbuch - Jahresfahrplan 1944/45 - Teil 6 (KBS 501 - 536)” (ドイツ語). pkjs.de. 2022年4月4日閲覧。