ラーコーツィ・ジェルジ1世
ラーコーツィ・ジェルジ1世 (ハンガリー語: I. Rákóczi György 1593年6月8日 – 1648年10月11日)は、トランシルヴァニア公 (在位: 1630年 - 1648年)。3代前のトランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジグモンドの子。即位前はハンガリーのプロテスタント勢力の指導者で、トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルの忠実な支持者であった。三十年戦争でハプスブルク家と戦うボヘミア貴族たちが支援を求めてきたときは、ベトレンを説得して自らトランシルヴァニア軍を率いて戦った。ベトレンが死去すると、一時期ベトレンの妻カタリーナ・フォン・ブランデンブルクと弟ベトレン・イシュトヴァーンが権力を握ったが、すぐに貴族に廃され、ラーコーツィ・ジェルジがトランシルヴァニア公に推戴された。その後ふたたびハプスブルク家と戦い、トランシルヴァニア公国の地位を固めた。
ラーコーツィ・ジェルジ1世 | |
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在位期間 1630年–1648年 | |
先代 | ベトレン・ガーボル |
次代 | ラーコーツィ・ジェルジ2世 |
出生 |
1593年6月8日 セレンチ, ハンガリー |
死亡 |
1648年10月11日 (55歳没) ギュラフェヘールヴァール, トランシルヴァニア (現アルバ・ユリア, ルーマニア) |
父親 | ラーコーツィ・ジグモンド |
母親 | アンナ・ゲレンディ |
配偶者 | ローラーントッフィ・ジュジャンナ |
子女 ラーコーツィ・ジェルジ2世 ラーコーツィ・ジグモンド | |
信仰 | カルヴァン主義 |
生涯
編集前半生
編集ラーコーツィ・ジェルジはトランシルヴァニアのバロン(後のトランシルヴァニア公)ラーコーツィ・ジグモンドとその2番目の妻アンナ・ゲレンディの間の長男として生まれた[1]。ハプスブルク家統治下の王領ハンガリーの有力な将軍だったジグモンドは、当時すでにラーコーツィ家の第一人者となっていた[2]。ジェルジは1593年6月8日にセレンチで生まれた[3][4]。母アンナは1595年に死去した[1]。
ジェルジの幼少期についての記録はほとんど無い[3]。1604年後半もしくは1605年前半に、ジェルジは父ジグモンドによりカッサ(現コシツェ、スロバキア) に送られた[5][6]。当時カッサではボチカイ・イシュトヴァーンがハプスブルク家の皇帝・ハンガリー王ルドルフ2世に対して反乱を起こしており[6]、ジグモンドはジェルジを派遣することでボチカイ・イシュトヴァーンへの支援を表明したのである[5]。1605年9月、ボチカイはトランシルヴァニア公に即位した[6]。
ボチカイは遺言でドルゲス・バーリントを後継者に指名したが、トランシルバニア議会はこれを無視して1606年2月12日にラーコーツィ・ジグモンドを次代トランシルヴァニア公に選出した[6]。ジグモンドが即位後最初にしたのは、ジェルジの健康を祈願する宴会だった[5]。しかしバートリ・ガーボルがトランシルヴァニア公位を要求し、ハンガリーの非正規部隊ハイドゥークと手を組んだ[7]。結局ジグモンドは、1608年3月5日に退位してバートリに公位を譲らざるを得なくなった[7]。とはいえ、短期間ながらジグモンドがトランシルヴァニア公となったことは息子のジェルジの地位を高めることになった。トランシルヴァニア公国では「公の血筋」を名乗れる貴族がラーコーツィ・ジェルジの他にいなかったからである[5]。1608年9月、彼は病床についた父に代わり、プレスブルク(現ブラチスラヴァ、スロバキア)で開かれたハンガリー議会に出席した[7]。12月5日にジグモンドが死去したが、ジェルジは議会に出席し続けた[8]。
裕福な貴族
編集ジェルジにはジグモンドとパールという2人の弟がいた。3人は父ジグモンドが王領ハンガリーに有していた広大な領地を相続した[4][9]。ところが、彼らの長姉の夫ドルゲス・バーリントやジグモンドの未亡人テレディ・ボルバーラ、さらにボルバーラの義理の息子ケンディ・イシュトヴァーンが、ラーコーツィ・ジグモンドの遺産の一部を要求してジェルジら兄弟を告訴した[9]。ジェルジはハンガリー王(兼神聖ローマ皇帝)の支持を取り付けるために1611年春にプラハへ赴いた[10]。また彼はハンガリー副王トゥルゾー・ジェルジとも手を組んだ[10]。
1615年、ジェルジはボルソド県のイスパーン(長官)となった[10]。翌年、彼はオーノドの王領の城の城主となった[10]。またジェルジは、裕福な相続人ロラーントッフィ・ジュジャンナと結婚した[4]。彼女について、ジェルジは亡くなる直前まで、彼が人生で出会った中で最も美しく快い女性だと強調していた[10]。夫婦は最初セレンチに居を構えたが、後にジュジャンナの領地シャーロシュパタクに移った[4]。またジェルジとジュジャンナは、改革派教会の熱烈な信者だった[4][11]。彼はバートリ・ガーボルを追い落としてトランシルヴァニア公となったカルヴァン派のベトレン・ガーボルを支持し、カトリックの対立公ドルゲス・ジェルジと対抗した[12]。 ドルゲスがトランシルヴァニアに侵攻しようとした際には、ラーコーツィ・ジェルジは1616年7月にベトレンのもとに駆け付けている[12][13]。
ルドルフ2世の跡を継いでハンガリー王となったマーチャーシュ2世(神聖ローマ皇帝マティアス)は、ハンガリー貴族のほとんどがプロテスタントであったにもかかわらず、カトリックの貴族を優遇した[12]。しかも子がいないマーチャーシュ2世の後継者として指名されていたフェルディナーンド(2世、後の皇帝フェルディナント2世)は強硬な対抗宗教改革の支持者として悪名高かった[11][14]。1618年7月1日、マティアスが存命のうちにフェルディナーンドがプレスブルクの議会でハンガリー王として戴冠した[15]。ジェルジはこの議会を欠席した[16]。
ボヘミア・プファルツ戦争
編集強硬なカトリックに傾いたハプスブルク家に対し、プロテスタントが大半を占めるボヘミア貴族が蜂起した[17]。フェルディナーンド2世がボヘミア王位を継いだ後の1618年5月22日、ボヘミア貴族たちはプラハ城になだれ込み、カトリックの顧問官らを窓から投げ落とした(第2次プラハ窓外放出事件)[18][11]。そして彼らはハプスブルク家に対する反乱を起こすにあたり、プロテスタント諸国に加勢を求める使節を送った[19]。
ハプスブルク家の反プロテスタント政策は、ハンガリーのプロテスタントの指導者となっていたラーコーツィ・ジェルジにとっても忌まわしいものだった[20]。彼はベトレン・ガーボルを急き立てて、ボヘミアの同胞を救うため抗争に介入した[21]。またジェルジは、1619年夏からハイドゥーク部隊を雇い入れ始めた[22]。上ハンガリーのハプスブルク軍司令官ドーチ・アンドラーシュは、ラーコーツィ家とベトレン家の仲を裂こうとして、フェルディナーンド2世を動かしてラーコーツィの領地をベトレンに与えさせようとした[23]。ベトレン・ガーボルはこれを拒絶するとともに、ハプスブルク家が直接支配する王領ハンガリーへ侵攻する決意を固めたことをラーコーツィ・ジェルジに伝えた[21][24]。ベトレンの後顧の憂いを断って援護しようと、ラーコーツィ・ジェルジは対立公ドルゲスをとらえようとしたが、ポーランドへ逃げられてしまった[25]。その後、ラーコーツィ・ジェルジはカッサへ向かい、9月5日に福音派やルター派の市民を説得して降伏させた[21][26]。翌日、彼の配下のハイドゥークが3人のイエズス会士、メルヒオル・グロジェツキ、マルコ・クリジン、ポングラーツ・イシュトヴァーンを拷問の末に殺害した[21]。
その後ラーコーツィ・ジェルジはシャーロシュパタクに戻り、9月17日にベトレン・ガーボル率いるトランシルヴァニア公国軍と合流した[27]。彼らはカッサに入り、そこでベトレン・ガーボルが上ハンガリーの貴族や都市の代表を集めて議会を開いた[27]。9月21日、議会はラーコーツィ・ジェルジを上ハンガリーの司令官に選出した[21]。彼はカッサを本拠地に定めた[28]。一方、ポーランドのドルゲスはコサックなどの傭兵を集め、11月21日にゼムプレーン県に再侵攻してきた[29]。ラーコーツィ・ジェルジはこれを止めようとしたが、11月23日にフメンネーの戦いで敗れた[21]。ウィーンを包囲していたベトレン・ガーボルは、ラーコーツィ・ジェルジの敗報を聞いてハンガリーに引き返した[30]。彼はカッサの市民にあてた手紙の中で、ラーコーツィは若く経験のない将軍だといって、その敗北をなじっている[31]。
ドルゲスの軍はカッサ周辺の地域を荒らしたが、街を攻略することはできなかった[32]。ラーコーツィは、地元の人々の動員を命じた[32]。年末になると、ドルゲスの配下のコサック兵がハンガリーから帰って行ったので、ドルゲスも翌年初頭にポーランドに撤退していった[33]。10月、フェルディナーンド2世の軍がプレスブルクを包囲したが、ラーコーツィが急行して包囲を解かせた[34]。しかし11月8日、ボヘミアで起きた白山の戦いで、ボヘミアプロテスタントの反乱軍は皇帝軍に完敗し、致命的な損害を被った[35]。カトリック軍の将軍ブッコワ伯が返す刀で上ハンガリーに侵攻してきたので、ベトレン・ガーボルらは1621年前半の段階ではカッサまで後退を強いられた[36]。大部分のハンガリー貴族はフェルディナーンド2世との和解を模索し始めたが、ラーコーツィはベトレンに忠実であり続けた[37]。フェレク(現フィラコヴォ、スロバキア)でベトレンの敵対者が蜂起したとき、ラーコーツィは4月にこれを包囲したが、降伏させることはできなかった[38]。8月、ベトレンはフェルディナーンド2世に対する反撃を始めた[38][39]。ラーコーツィはこれに同行してプレスブルクを包囲したが、8月下旬にはシャーロシュパタクの家族の元に帰ってしまった。1か月後、ベトレンの命令でラーコーツィは前線に戻ってきた[40]。
1622年1月、ベトレンとフェルディナーンド2世は和平を結んだ[41]。このニコルスブルクの和約で、ベトレンはアバウーイ、ベレグ、ボルショド、サボルチ、サトマール、ウゴチャ、ゼムプレーンの7県を死ぬまで領有することを認められた[21]。
トランシルヴァニア公
編集ラーコーツィ・ジェルジは、1629年にベトレンが死去するまで彼に仕え続けた。その後、一時期ベトレンの未亡人カタリーナ・フォン・ブランデンブルクや弟イシュトヴァーンが公位を得るが、すぐにトランシルヴァニア貴族たちはラーコーツィ・ジェルジについた。1630年12月1日、トランシルヴァニアの諸身分はシギショアラでラーコーツィ・ジェルジ(1世)をトランシルヴァニア公に選出した。
1644年、ラーコーツィ・ジェルジ1世はフェルディナーンド3世(皇帝フェルディナント3世)に宣戦布告し、再び三十年戦争に介入した。彼は上ハンガリー全土を制圧し、ブルノを包囲していたスウェーデン軍と合流し、ウィーン侵攻まで計画していた。しかしトランシルヴァニア公国の宗主オスマン帝国が、ラーコーツィ・ジェルジ1世に遠征を終了するよう命じた。1645年のリンツ条約で、フェルディナーンド3世はラーコーツィ・ジェルジ1世がパルティウム(王領ハンガリーとトランシルヴァニア公国の係争地)の7県を領有することと、トランシルヴァニアにおける信教の自由を認めた。1648年、ラーコーツィ・ジェルジ1世は死去し、息子のラーコーツィ・ジェルジ2世がトランシルヴァニア公となった。
系図
編集16. ラーコーツィ・アンドラーシュ | |||||||||||||||||||
8. ラーコーツィ・ジグモンド | |||||||||||||||||||
17. ポヤーク・クリスティナ | |||||||||||||||||||
4. ラーコーツィ・ヤーノシュ | |||||||||||||||||||
9. ハラスティ・ドーラ | |||||||||||||||||||
2. ラーコーツィ・ジグモンド | |||||||||||||||||||
5. ネーメティ・サーラ | |||||||||||||||||||
1. ラーコーツィ・ジェルジ1世 | |||||||||||||||||||
6. ゲレンディ・ヤーノシュ | |||||||||||||||||||
3. ゲレンディ・アンナ | |||||||||||||||||||
14. エルデーイ・ベルタラン | |||||||||||||||||||
7. エルデーイ・カタ | |||||||||||||||||||
30. ケメーニ・ペーテル | |||||||||||||||||||
15. ケメーニ・カタ | |||||||||||||||||||
ロラーントッフィ・ズザンナと結婚し、4人の息子が生まれた。
- サムエル (1617年–1618年)
- ラーコーツィ・ジェルジ2世 (1621年–1660年)
- ラーコーツィ・ジグモンド (1622年-1652年), ヘンリエッテ・マリー・フォン・デア・プファルツと結婚
- フランク (1624年–1632年)
脚注
編集- ^ a b Hangay 1987, p. 226.
- ^ Nagy 1984, p. 32.
- ^ a b Nagy 1984, p. 33.
- ^ a b c d e Várkonyi 2012, p. 218.
- ^ a b c d Nagy 1984, p. 34.
- ^ a b c d Hangay 1987, p. 227.
- ^ a b c Hangay 1987, p. 228.
- ^ Hangay 1987, p. 222.
- ^ a b Nagy 1984, p. 38.
- ^ a b c d e Nagy 1984, p. 39.
- ^ a b c Nagy 1984, p. 46.
- ^ a b c Nagy 1984, p. 44.
- ^ Péter 1981, p. 444.
- ^ Parker 1987, p. 35.
- ^ Péter 1981, p. 446.
- ^ Várkonyi 2012, p. 219.
- ^ Nagy 1984, p. 43.
- ^ Parker 1987, p. 43.
- ^ Parker 1987, pp. 45–46.
- ^ Nagy 1984, p. 48.
- ^ a b c d e f g Péter 1981, p. 447.
- ^ Nagy 1984, pp. 44, 52.
- ^ Nagy 1984, p. 47.
- ^ Nagy 1984, p. 53.
- ^ Nagy 1984, p. 54.
- ^ Nagy 1984, p. 56.
- ^ a b Nagy 1984, p. 58.
- ^ Nagy 1984, p. 59.
- ^ Nagy 1984, p. 63.
- ^ Parker 1987, p. 52.
- ^ Nagy 1984, pp. 64–65.
- ^ a b Nagy 1984, p. 69.
- ^ Nagy 1984, p. 71.
- ^ Nagy 1984, pp. 72–73.
- ^ Parker 1987, p. 55.
- ^ Nagy 1984, p. 76.
- ^ Nagy 1984, pp. 76–77.
- ^ a b Nagy 1984, p. 77.
- ^ Péter 1981, p. 451.
- ^ Nagy 1984, p. 79.
- ^ Parker 1987, p. 58.
参考文献
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- Nagy, László (1984). A "bibliás őrálló" fejedelem: I. Rákóczi György a magyar históriában [The "Bible-reader and Guarding" Prince: George I Rákóczi in Hungarian Hitoriography]. Magvető Kiadó. ISBN 963-14-0204-5
- Parker, Geoffrey (1987). The Thirty Years' War. Routledge. ISBN 0-415-15458-8
- Péter, Katalin (1981). “A három részre szakadt ország és a török kiűzése (1526–1605)”. In Benda, Kálmán; Péter, Katalin (ハンガリー語). Magyarország történeti kronológiája, II: 1526–1848 [Historical Chronology of Hungary, Volume I: 1526–1848]. Akadémiai Kiadó. pp. 361–430. ISBN 963-05-2662-X
- Péter, Katalin (1994). “The Golden Age of the Principality (1606–1660)”. In Köpeczi, Béla; Barta, Gábor; Bóna, István et al.. History of Transylvania. Akadémiai Kiadó. pp. 301–358. ISBN 963-05-6703-2
- Várkonyi, Gábor (2012). “I. Rákóczi György”. In Gujdár, Noémi; Szatmáry, Nóra (ハンガリー語). Magyar királyok nagykönyve: Uralkodóink, kormányzóink és az erdélyi fejedelmek életének és tetteinek képes története [Encyclopedia of the Kings of Hungary: An Illustrated History of the Life and Deeds of Our Monarchs, Regents and the Princes of Transylvania]. Reader's Digest. pp. 218–221. ISBN 978-963-289-214-6