ラミア (ギリシャ)
ラミア(Λαμία)は、ギリシャの中央ギリシャ地方の主都であり、フティオティダ県の県都である。
ラミア Λαμία | |
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ラミア市街の中心部 | |
位置 | |
ラミアの位置 | |
位置 | |
座標 : 北緯38度54分 東経22度26分 / 北緯38.900度 東経22.433度 | |
行政 | |
国 | ギリシャ |
地方 | 中央ギリシャ |
県 | フティオティダ県 |
市 | ラミア |
地理 | |
面積 | |
市域 | 413.5 km2 |
標高 | 50 m |
人口 | |
人口 | (2001年現在) |
市域 | 5万8601人 |
人口密度 | 142人/km2 |
その他 | |
等時帯 | EET (UTC+2) |
夏時間 | EEST (UTC+3) |
公式ウェブサイト : http://www.lamia.gr/ |
町の名称
編集ラミアの由来
編集語源には諸説ある。
ジトゥニオン
編集中世には、ラミアの町はジトゥニオン(Ζητούνιον/Zetounion)と呼ばれ、869年に開かれた第8回キリスト教公会議の中で言及されたのが初めであり、その後変化を経つつも、19世紀初めまでジトゥニ(Ζητούνι/Zitouni)として名称は残った。この名称についてもいくつかの説があり、アラビア語の"zeitun"(オリーヴ)から取られたという説や、スラヴ語の"sitonion"(川の向こうの地)からだという説もある。1204年にラテン帝国がジトゥニオンを攻略すると、この町はジルトゥニオン(Zirtounion)、ジトニオン(Zitonion)、ジルトン(Girton)(フランス人支配時)、エル・シト(El Cito)(カタルーニャ人支配時)という名称で呼ばれるようになった。さらに、オスマン帝国時代にはイズティン(Iztin)とも呼ばれた。
歴史
編集古くは紀元前5千年紀の頃から人間が住んでいたが、ラミアが歴史に登場するのは、紀元前424年に発生した地震の後からである。その頃のラミアは、スパルタの重要な軍事基地であった。その後マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)に征服されたが、大王の死後、アテナイやギリシアの他のポリスは、マケドニア王国の支配に対して反発した。この時マケドニア王国の将軍アンティパトロスは、ラミアの町に逃れた。この紀元前323年から紀元前322年にかけて行われたラミア戦争は、アテナイの将軍レオステネスの死と、20,000人強のマケドニア王国軍のラミア到着によって終結した。その後、特にアエトリア同盟の統治下に入った紀元前3世紀には、ラミアの町は繁栄した。しかし、紀元前190年に、共和政ローマの執政官マニウス・アキリウス・グラブリオがラミアを占領すると、町の繁栄は終わった。1829年にはギリシャ領となり、当時は国境の町となった。
観光
編集- カストロ - ラミアの要塞化されたアクロポリス
- 自由広場(プラティア・エレフテリアス)- 大聖堂があり、独立記念日パレードが行われる場所。屋外席付きのカフェも多くある。
- ディアコス広場 - アタナシオス・ディアコスの像がある広場。
- パルク広場
- 人民広場 - アリス・ヴェルヒオティスの像がある広場。
人口推移
編集年 | 市人口 | 年間増加数 | 年間増加率 |
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1981 | 4万1846人 | ||
1991 | 5万5445人 | +1360人/年 | +28.5‰/年 |
2001 | 5万8601人 | +316人/年 | +5.6‰/年 |
著名な出身者
編集- アタナシオス・ディアコス (1788–1821)、ギリシャ独立戦争時のギリシャ軍司令官
- アリス・ヴェルヒオティス (1905–1945)、ギリシャ内戦時のギリシャ人民解放軍 (ELAS) の指導者
- イリアス・ツィリモコス (1907–196)、ギリシャ王国首相
- タノス・リヴァディティス (1935–2005)、俳優・脚本家
- ニキ・バコイヤーニ (1968–)、陸上選手
姉妹都市
編集スポーツ
編集- ラミアFC
- ラミア・スキー登山クラブ(XOOL)
- ヨニコス・ラミアスBC
- GSラミア
- ニレアス・ラミアス
- ヨニコス・ネアス・マグニシアス
出典
編集参考文献
編集- "PDF (875 KB) 2001 Census" National Statistical Service of Greece (ΕΣΥΕ) (2007-10-30)
- "Basic Characteristics" Ministry of the Interior (2007-08-07)