ヨーゼフ・パエリンク
ベルギーの画家
ヨーゼフ・パエリンク(Joseph Paelinck、1781年3月20日 - 1839年6月19日)は、現在のベルギーのヘントに生まれた画家である。フランスの支配を受けた時代にパリなどで学び、その後ヘントやブリュッセルで働いた。肖像画や宗教画を描いた。
ヨーゼフ・パエリンク Joseph Paelinck | |
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自画像 | |
生誕 |
1781年3月20日 オースタッケル(Oostakker) |
死没 |
1839年6月19日 (58歳没) ベルギー、イクセル |
略歴
編集現在はヘント市の準自治体であるオースタッケル(Oostakker)の農家に生まれた。ヘントの美術学校でMarijn Braeckman神父に絵を学んだ後、フランス共和国の衛星国家のバタヴィア共和国時代の1802年にパリに送られ、多くの弟子を教えていたジャック=ルイ・ダヴィッドの学生の一人となった[1]。ダヴィッドのお気に入りの弟子となり、徴兵されることもなかった。1808年から1812年の間は、ヘントからの奨学金を受けてローマで修行し、クイリナーレ宮殿の装飾画も描いた。
オランダに帰国し、1812年からヘントで働き肖像画家としての技術が評価されオラニエ=ナッサウ家の支援を受け、1815年にフランスから独立してネーデルラント連合王国が成立し、ウィレム1世が即位するとブリュッセルに移り、宮廷画家になった。ブリュッセル王立美術アカデミーとアントウェルペンの王立芸術アカデミーの会員にもなり、美術教師として働いた。1830年にベルギーが独立する頃には、パエリンクのスタイルは人気を失っていたとされる。
オランダ獅子勲章受やベルギーのレオポルド勲章を受勲した[2]。
ヨーゼフ・パエリンクに学んだ学生にはシャルル・ボーニエらがいる、
作品
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王妃ヴィルヘルミーネの肖像画 (1817)
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十字架の発見 (c.1808)
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エジプトへの逃避
脚注
編集- ^ Une lettre du tribun van Hulthem, écrite de Paris aux présidents et directeurs de l'Académie de Gand, datée du 8 fructidor An X (27 août 1802), les informe que Paelinck vient de rentrer dans l'atelier de David.
- ^ Bulletin, Revue universelle : Bibliothèque de l'homme du monde et de l'homme politique au XIXe siècle, vol. 40, t. 4, Bruxelles, Société belge de librairie, 1839, 513 p. (lire en ligne [archive]), p. 106..
- ^ Son acte de décès, rédigé le 20 juin 1839 (Ixelles acte no 147), précise qu'il est mort la veille à neuf heures du matin, section 2, no 161 et qu'il était âgé de 58 ans, 2 mois et 28 jours et veuf de Barbe Maelcamp et époux de Louise Françoise Horgnies. L'acte précise : « peintre d'histoire, ancien peintre de la reine des Pays-Bas, chevalier de l'ordre du Lion Belgique et de l'ordre de Léopold ».
参考文献
編集- Félix-Victor Goethals, Histoire des lettres, des sciences et des arts, en Belgique et dans les pays limitrophes, vol. 2, Bruxelles : [s.n.], 1840-1844, p. 436-452.