ヨハン・アンマン
ヨハン・アンマン(Johann Amman、Johannes Amman、ロシア語: Иоганн Амман、1707年12月22日 - 1741年12月14日)は、スイス生まれで、ロシア帝国で働いた植物学者である。1739年に東ヨーロッパや現在のウクライナの植物図譜 "Stirpium Rariorum in Imperio Rutheno Sponte Provenientium Icones et Descriptiones"を編集した。
シャフハウゼンで生まれた。オランダのライデン大学でヘルマン・ブールハーフェのもとで、医学を学んだ。1729年に医学の学位を得たあと、イギリスの博物学者、植物収集家のハンス・スローンの収集品の研究・整理のために働いた。1731年に王立協会の会員に選ばれた[1]。ヨハン・グメリン(Johann Georg Gmelin)の勧めで、ロシアのサンクトペテルブルクに赴き、ロシア科学アカデミーの会員になった[2]。興味深い植物をスローンに送り、1736年から1740年の間にはカール・フォン・リンネと、頻繁に連絡を取り合った[3]。
1735年にサンクトペテルブルクのワシリエフスキー島に植物園を設立し、1739年にサンクトペテルブルクの宮廷司書館の娘と結婚し、1740年からロシア科学アカデミーの植物学の教授を務めた。サンクトペテルブルクで没した。
1739年の著書、"Stirpium Rariorum in Imperio Rutheno Sponte Provenientium Icones et Descriptiones"は植物285種の図を含む、植物図譜で、図版はスイス生まれのイタリアの版画家、Philipp Georg MattarnovyやロシアのFilippo Giorgio Mattarnoviが製作した。
Icones et Descriptionesの図版
編集脚注
編集出典
編集- ^ "Amman; John (1707 - 1741)". Record (英語). The Royal Society. 2012年6月4日閲覧。
- ^ AMMAN, Johannes, Stirpium rariorum in Imperio Rutheno sponte provenientium icones et descriptiones
- ^ The Linnaean Correspondence - Biography