ヨハン・アルブレヒト2世 (メクレンブルク公)
ヨハン・アルブレヒト2世(Johann Albrecht II., 1590年5月5日 - 1636年4月23日)は、メクレンブルク=ギュストロー公(在位:1610年 - 1628年、1631年 - 1636年)。
ヨハン・アルブレヒト2世 Johann Albrecht II. | |
---|---|
メクレンブルク=ギュストロー公 | |
ヨハン・アルブレヒト2世(1635年、ワルシャワ国立美術館蔵) | |
在位 |
1610年 - 1628年 1631年 - 1636年 |
出生 |
1590年5月5日 神聖ローマ帝国 メクレンブルク公領、ヴァーレン |
死去 |
1636年4月23日(45歳没) 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=ギュストロー公領、ギュストロー |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 メクレンブルク=ギュストロー公領、ギュストロー大聖堂 |
配偶者 | マルガレーテ・エリーザベト・フォン・メクレンブルク |
エリーザベト・フォン・ヘッセン=カッセル | |
エレオノーレ・マリー・フォン・アンハルト=ベルンブルク | |
子女 | 本文参照 |
家名 | メクレンブルク家 |
父親 | メクレンブルク=シュヴェリーン公ヨハン7世 |
母親 | ゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ |
生涯
編集ヨハン・アルブレヒトは、メクレンブルク=シュヴェリーン公ヨハン7世とゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプの息子である。「Der Vollkommene」という名で、実りを結ぶ会の会員として認められた。
1608年4月16日から、カール1世の後見の下で兄のアドルフ・フリードリヒ1世とシュヴェリーンを共同統治し、1611年7月9日に後見人よりギュストローの支配を引き継いだ[1]。第2次メクレンブルク分割では、ヨハン・アルブレヒトは単独でメクレンブルク=ギュストローを与えられた。1614年にカルヴァン派に改宗し、2回目の結婚の際に公表された[2]。
ヨハン・アルブレヒトと兄アドルフ・フリードリヒは1623年にニーダーザクセンの防衛同盟に参加し、戦いにおいては中立を保とうと努めたが、密かにデンマーク王クリスチャン4世のデンマーク軍を支援したため、ルッターの戦いにおける敗戦後ティリー指揮下の帝国軍から敵とみなされた。
1628年1月19日、皇帝フェルディナント2世はボヘミアのブランディス城から文書を発し、ヨハン・アルブレヒトらを公位から退位させ、最初は担保としてヴァレンシュタインをメクレンブルク公とし、1629年6月16日には公位を世襲とした。1628年5月にヴァレンシュタインに促されてヨハン・アルブレヒトらは領地を離れたが、1631年5月にヴァレンシュタインが打倒された後、スウェーデン軍の援助を得て帰国した。ヨハン・アルブレヒトは46歳になる直前に亡くなり、ギュストロー大聖堂に埋葬された。
結婚と子女
編集ヨハン・アルブレヒト2世は3度結婚した。
1608年10月9日、メクレンブルク公クリストフとスウェーデン王女エリサベト・ヴァーサの娘マルガレーテ・エリーザベト(1584年 - 1616年)と結婚した。2人の間には以下の子女が生まれた。
- ヨハン・クリストフ(1611年 - 1612年)
- ゾフィー・エリーザベト(1613年 - 1676年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト2世と結婚
- クリスティーネ・マルガレーテ(1615年 - 1666年) - 1640年2月11日にフランツ・アルブレヒト・フォン・ザクセン=ラウエンブルク(ザクセン=ラウエンブルク公フランツ2世の息子)と結婚、1650年7月6日にメクレンブルク=シュヴェリーン公クリスティアン・ルートヴィヒ1世と結婚(1663年に離婚)
- カール・ハインリヒ(1616年 - 1618年)
1618年3月26日、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの娘エリーザベト・フォン・ヘッセン=カッセル(1596年 - 1625年)と結婚した。この結婚では子供は生まれなかった。
1626年5月7日、アンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン1世の娘エレオノーレ・マリー・フォン・アンハルト=ベルンブルク(1600年 - 1657年)と結婚した。2人の間には以下の子女が生まれた。
脚注
編集外部リンク
編集- Herzog Johann Albrecht II.の文献 - Landesbibliographie MV
- Druckschriften von und über Johann Albrecht II. im VD 17.
- Stammtafel des Hauses Mecklenburg
|
|
|
|