ユーラブルグント王国
フランク王国 888年 - 933年[1] アルル王国
上ブルグントの位置
900年頃のブルグント王国。黄色の部分がユーラブルグント王国。
首都 不明
888年 - 912年 ルドルフ1世(初代)
912年 - 933年ルドルフ2世(キスユラ・ブルグント王国を併合)
変遷
成立 888年
キスユラ・ブルグント王国を併合933年

ユーラブルグント王国は、旧ブルグント王国のあった地域のユラ山脈以北に存在した王国上ブルグント王国高ブルグント王国トランスユラニア王国(Transjuranien)とも呼ぶ。現在のスイス中西部にフランスのブルゴーニュ地方東部を含めた地域にあたる。

この地はカロリング朝フランク王国の分裂後、中部フランク王国、さらにロタリンギアの一部であった。ロタリンギア王ロタール2世は、在地貴族の統制のためヴェルフ家のオセール伯コンラート2世を招き、コンラートはこの地で権力を確立した。ロタール2世の死後はメルセン条約により東フランク王国領となったが、その後リブモント条約で分離した。

フランク王国を一時統一したカール3世888年に死去し、コンラート2世の息子ルドルフ1世 が上ブルグントを継承してブルグント王位につき成立した。933年ルドルフ2世ウーゴキスユラブルグント王国を併合し、それ以降は単にブルグント王国と呼び、またそのときアルル首都としたためアルル王国とも呼ぶ。

王国成立後もジュネーヴ伯やサヴォイア家などの在地貴族の勢力が依然として強く、国王ルドルフ3世は司教に支配権を与え、支配強化をはかった。これが、のちの聖界諸侯領形成につながっていった。1032年、ヴェルフ家の最後の男系の王ルドルフ3世が死去し、ルドルフ3世の姪と結婚したローマ皇帝コンラート2世がブルグント王となり、ブルグント王国は神聖ローマ帝国に併合された。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 表記はキスユラブルグント王国併合年。1032年、ブルグント王家は断絶し、それ以降ブルグント王位は神聖ローマ皇帝に引き継がれた。

参考文献

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  • 森田安一 編『新版世界各国史 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年、p.24-25