ヤマニンバリメラ
ヤマニンバリメラは、1970年代を中心に中央競馬で走った日本の競走馬。重賞は未勝利に終わったが、当時の中央競馬としてもめずらしい通算100戦出走の大台達成なるかで注目を集めた。
ヤマニンバリメラ | |
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現役期間 | 1973年 - 1981年 |
欧字表記 | Yamanin Ballymara |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1971年5月6日 |
父 | バリメライス |
母 | ヤマサチ |
母の父 | トサミドリ |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 廣田伉助 |
馬主 | 川田武 |
調教師 | 浅見国一(栗東) |
厩務員 | 立山公明[1] |
競走成績 | |
生涯成績 |
99戦10勝 (うち地方競馬2戦0勝) |
獲得賞金 | 1億6605万1800円[2] |
来歴
編集1973年9月23日に初出走し、4戦目で初勝利を挙げる。1974年以降はコンスタントに年10戦以上を消化した。ただし夏負けする体質[3]のため8月の前後は休養にあてられた。本馬を管理した調教師の浅見国一は、本馬が息長く走れた秘訣について「とりたててはないと思っている」[3]としながらも、「疲労の激しい真夏のレースを使えなかったことがよかったのではないかな」と述べている[3]。
重賞を含めた特別競走への出走は82回を数え[4]、“生ずるい”気性[3]の追い込み脚質[4]ながら10勝、2着13回、3着12回、4着11回、5着9回[2]と堅実な成績を残した。なかでも芝コースの長距離と道悪、ダートコースを得意としていた。京都、阪神、中京の3競馬場で集中してレースに使われたが、中央競馬招待競走出走のため大井競馬場へも2度にわたり遠征した。騎手は7勝を挙げた池江泰郎を筆頭に、田島良保や日高三代喜らが騎乗した。
旧表記にして10歳となる1980年までレースに出走した。一時期裂蹄に悩まされた[5]以外は大きなけがもなくきていたが、同年5月3日に通算99戦目となるエメラルドステークス(1700万円以下条件)への出走後、3度目の大井競馬場遠征を前にして、左前脚に屈腱炎を発症[5]。このとき引退が検討された[5]が、NHKで取り上げられたり[6][7]、ファンクラブが結成される[5]といった現象もあり、調教師も悩んだ末の[5]現役続行となった。放牧休養を経て[3]、翌1981年3月の末に栗東トレーニングセンターに戻り[5]調教を再開したものの、間もなく屈腱炎を再発[5]したため、レースへの復帰ならず引退。同年4月26日、大阪府立大学の馬術部に引き取られていった[3]。
おもな競走成績
編集血統表
編集ヤマニンバリメラの血統ネアルコ系 / Blandford 4×5=9.38% | (血統表の出典) | |||
父 *バリメライス Ballymarais 1962 栗毛 |
父の父 Ballymoss1954 栗毛 |
Mossborough | Nearco | |
All Moonshine | ||||
Indian Call | Singapore | |||
Flittemere | ||||
父の母 Skylarking1950 栗毛 |
Precipitation | Hurry On | ||
Double Life | ||||
Woodlark | Bois Roussel | |||
Aurora | ||||
母 ヤマサチ 1960 鹿毛 |
トサミドリ 1946 鹿毛 |
*プリメロ | Blandford | |
Athasi | ||||
*フリツパンシー | Flamboyant | |||
Slip | ||||
母の母 第弐ヒマラヤ1947 黒鹿毛 |
ミネオカ | *ダイオライト | ||
月丘 | ||||
ヒマラヤ | *ステーツマン | |||
第貮デヴオーニア F-No.10-d |
モンタヴァルを父に持つ半兄モンタルビーは1971年秋の阪神障害ステークス3着馬。ミシアーフを父に持つ半弟のヤマニンミノルは1978年の京阪杯2着馬で、たびたび本馬と同じ競走に出走することがあった。
脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集- ミスタートウジン - 同じく99戦止まりで引退した競走馬。