モーガン・ポール・エンスバーグMorgan Paul Ensberg, 1975年8月26日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ハモサビーチ出身の元プロ野球選手三塁手)。右投右打。

モーガン・エンスバーグ
Morgan Ensberg
ヒューストン・アストロズでの現役時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州ロサンゼルス郡ハモサビーチ
生年月日 (1975-08-26) 1975年8月26日(49歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1998年 MLBドラフト9巡目
初出場 2000年9月20日
最終出場 2008年5月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

編集

プロ入り前

編集

1994年MLBドラフト61巡目(全体1534位)でシアトル・マリナーズから指名されるが、入団契約を交わさずに南カリフォルニア大学へ進学した。

現役時代

編集

1998年MLBドラフト9巡目(全体272位)でヒューストン・アストロズから指名されプロ入り。ちなみに後にチームメイトになるジェイソン・レーンとは、南カリフォルニア大学時代にもチームメイトだった。2000年9月にメジャーデビューを果たす。翌2001年はメジャーでの出場がなかったが、2002年には49試合に出場、2003年には三塁のレギュラーに定着した。

2005年は、前年オフにカルロス・ベルトランジェフ・ケントがFA移籍し、主砲ジェフ・バグウェルランス・バークマンが故障で長期欠場を強いられていったため、この年のアストロズはナショナルリーグ11位の693得点と得点力不足に泣かされていた。開幕当初の33試合で4本塁打と低調だったものの、5月11日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で1試合3本塁打を放ち、そこからコンスタントに打ち続けた。オールスターの時点で24本塁打を放ち、攻守でチームを牽引。9月に右手に死球を受けた影響で、終盤戦は調子が下がったものの、シーズントータルでは自己最多の36本塁打、101打点を記録しシルバースラッガー賞を受賞。その活躍ぶりが評価され、同年のオールスターにも初めて選出され、MVP投票でも4位になった。また、この年の36本塁打&101打点は、球団の三塁手記録となった。ちなみに、この年、1試合(2イニング)だけメジャー昇格後初となる遊撃手としてプレーした。そして、同年オフに1年380万ドルで契約延長。

2006年は、5月終了時点で17本塁打、36打点、40四球を選び、4割近い出塁率をキープする順調な滑り出しを見せた。しかし、6月に三塁守備の際に右肩を負傷してから打撃不振に陥り、7月には状態が悪化したために約3週間ほどDL入りを余儀なくされた。復帰後も復調せず、4本塁打、14打点と低調だったため、戦線離脱中にタンパベイ・デビルレイズからトレードで加入し、三塁手として穴を埋めていたオーブリー・ハフや内野のユーティリティのマイク・ラムと併用されるようになった。結局、2年連続20本塁打以上となる23本塁打を放ち、出塁率.396と高い数字を残したものの、打率は.235と前年から約5分下がり、打点は58と前年から半減した。

2007年も開幕から大不振で、打率自体はそれほど変わらなかったものの、長打が減り、四球も大幅に減ったため、出塁率も大幅に下がった。そのため、アストロズは同年7月28日、同じく不振だったダン・ウィーラーとのトレードで、三塁手のタイ・ウィギントンを獲得。このため、ポジションを追われる形となり、わずか3日後の同年7月31日サンディエゴ・パドレスへトレード移籍。移籍後、最初のホーム6試合で3本塁打を放ち、復調したかに思われたが、結局、若手のケビン・クーズマノフに追いやられる形となり、シーズン終盤は代打としてプレーした。また、パドレス移籍後、メジャーに昇格して初めて一塁手としてプレーした。

2008年1月31日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。その際、1990年代後半の黄金期を支えたポール・オニールが背負い、引退後は半ば永久欠扱いとなっていた番背番号「21」を打診されたがこれを断って「11」を付けた。開幕メジャー入りを果たしたが、打率.235、1本塁打、4打点と結果を残せず、6月1日に戦力外となった。

2009年2月9日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだ。しかし、開幕前に自由契約となり、引退した。

引退後

編集

2013年には、古巣アストロズの傘下のA+級ランカスター・ジェットホークスの育成コーチに就任した。

2014年からは、アストロズの特別補佐コーチに就任した[1]

2019年にレイズ傘下AA級モンゴメリー・ビスケッツの監督に就任し、2023年まで務めた。

2024年からはレイズ傘下AAA級ダーラム・ブルズの監督を務める[2]

選手としての特徴

編集

打撃面は選球眼のよさとパンチ力が持ち味。

ポジションは三塁手で、他に一塁手遊撃手としてのプレー経験がある。

詳細情報

編集

年度別打撃成績

編集
















































O
P
S
2000 HOU 4 7 7 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .286 .286 .286 .572
2002 49 153 132 14 32 7 2 3 52 19 2 0 0 0 18 0 3 25 8 .242 .346 .394 .740
2003 127 441 385 69 112 15 1 25 204 60 7 2 1 1 48 1 6 60 10 .291 .377 .530 .907
2004 131 456 411 51 113 20 3 10 169 66 6 4 5 4 36 1 0 46 17 .275 .330 .411 .741
2005 150 624 526 86 149 30 3 36 293 101 6 7 0 5 85 9 8 119 12 .283 .388 .557 .945
2006 127 495 387 67 91 17 1 23 179 58 1 4 0 3 101 7 4 96 3 .235 .396 .463 .859
2007 85 259 224 36 52 10 0 8 86 31 0 1 2 2 31 0 0 48 6 .232 .323 .384 .707
SD 30 65 58 11 13 3 0 4 28 8 0 0 0 0 7 0 0 19 1 .224 .308 .483 .791
'07計 115 324 282 47 65 13 0 12 114 39 0 1 2 2 38 0 0 67 7 .230 .320 .404 .724
2008 NYY 28 80 74 6 15 0 0 1 18 4 0 1 0 0 6 0 0 22 1 .203 .263 .243 .506
MLB:8年 731 2580 2204 340 579 102 10 110 1031 347 22 19 8 15 332 18 21 436 58 .263 .362 .468 .830

表彰

編集

記録

編集

背番号

編集
  • 2(2000年、2007年途中 - 同年終了)
  • 14(2002年 - 2007年途中)
  • 11(2008年)

脚注

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集