モヤレ
モヤレ、モイェール(Moyale, Moyalle)はエチオピアとケニアにまたがる町。エチオピア側が規模が大きい。 ケニアのモヤレ県の行政中心都市でもある。 ケニアの首都ナイロビからエチオピアの首都アディスアベバを陸路で移動する場合、モヤレの国境検問所を通る場合が多い。 モヤレの周囲はディデ・ガルガルという名の砂漠である。 モヤレよりも北はエチオピア高原となり、南のケニア側より標高が400メートルほど高くなる。 この辺りのエチオピア高原の境は崖になっている所が多いが、モヤレの辺りは比較的通行が容易な地形になっている。
モヤレ ሞያሌ Moyale | |
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北緯3度31分37秒 東経39度3分22秒 / 北緯3.52694度 東経39.05611度座標: 北緯3度31分37秒 東経39度3分22秒 / 北緯3.52694度 東経39.05611度 | |
国 |
エチオピア ケニア (両国にまたがる) |
州 |
エチオピア: オロミア州 ケニア:マルサビット |
人口 | |
• 合計 | 41,600人 |
等時帯 | UTC+3 (東アフリカ時間) |
人口
編集エチオピア側
編集ケニア側
編集民族
編集言語
編集治安
編集歴史
編集19世紀の末、イギリスはケニアを植民地に加えてイギリス領東アフリカを作ったが、エチオピアとの国境は曖昧だった。1905年、イギリスはギリシャ系エチオピア人のザフィロ(Zaphiro)に命じ、モヤレに通関所を設けてエチオピアからの侵入を監視し、エチオピア領との国境を1907年に確定した[5]。この通関所はハリントンの砦と名づけられた。1908年に訪れたC.W.グウィン(Gwynn)によると、ザフィロの屋敷は山脈の切れ目にあり、数エーカーの庭があった。グウィンは「この場所を通る道は将来大きな交易に使われるようになるだろう。ハリントンの砦はその管理に適した位置に置かれている」と評している[6]。ザフィロは1909年まで駐在した[5]。
1909年になると、イギリスは今日のケニア北東部に北部辺境地区を設け、メル、マルサビットとモアレを行政中心都市としている[5]。
第二次世界大戦中の1940年、この町はイタリアが占領し、イタリア領東アフリカの一部となった。1941年7月15日にイギリスが取り返している。
1999年の始め、エチオピアの反乱組織オロモ解放戦線(OLF)がエチオピア軍に追われてケニアに越境し、さらにエチオピア軍もそれを追ってケニア側で銃撃戦となる事態になった[4]。そのためエチオピアとケニアの間にも緊張状態が発生した。そうした中、モヤレでイマーム(イスラーム指導者)が射殺される事件があり、これがオロモ解放戦線(OLF)に同調的なエチオピア警官の仕業であるとして、モヤレのケニア側でデモが発生している[7]。
2009年11月、エチオピアの首相メレス・ゼナウィは、エチオピアの鉄道をモヤレまで延長する計画を発表した。これは、ケニアが港町ラムと各地とをターマックの道路で結ぶという計画に乗ったものだった[8]。
脚注
編集- ^ City Population(閲覧日:2016年8月22日)
- ^ City Population(閲覧日:2016年8月22日)
- ^ 1994 Population and Housing Census of Ethiopia: Results for Oromia Region, Vol. 1, part 1, Tables 2.1, 2.3, 2.14, 2.17 (accessed 6 April 2009)
- ^ a b 外務省 ケニアに対する渡航情報(危険情報)の発出、2010年10月06日付
- ^ a b c 和田正平 『現代アフリカの民族関係』、2001年、ISBN 4-7503-1420-X、pp.485-510
- ^ C. W. Gwynn, "A Journey in Southern Abyssinia", Geographical Journal, 38 (August 1911), p. 122
- ^ "Horn of Africa, Monthly Review, December '98-January '99", UN-OCHA Archive (accessed 23 February 2009)
- ^ "Kenya, Ethiopia for joint infrastructure (November 24, 2009)" Archived 2011年7月20日, at the Wayback Machine., press release of the Ethiopian Ministry of Foreign Affairs (accessed 28 December 2009)