メキネンサ
メキネンサ(スペイン語: Mequinenza, カタルーニャ語: Mequinensa)は、スペイン・アラゴン州サラゴサ県のムニシピオ(基礎自治体)。アラゴン州内におけるカタルーニャ語地域、ラ・フランハ地方の北東部にあたる。
州 | アラゴン州 |
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県 | サラゴサ県 |
面積 | 307.45 km² |
標高 | 75m |
人口 | 2,436 人 (2013年) |
人口密度 | 7.92 人/km² |
住民呼称 | Mequinenzano, -na |
北緯41度22分0秒 西経0度18分0秒 / 北緯41.36667度 西経0.30000度座標: 北緯41度22分0秒 西経0度18分0秒 / 北緯41.36667度 西経0.30000度
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地理
編集エブロ川、セグラ川、シンカ川の3河川の合流地点にある。時として洪水に見舞われることもあったが、川の船上輸送が盛んであった。
公用語はスペイン語であるが、住民はカタルーニャ語を口語としている。
石炭採掘、織物産業が盛んである。古くから行われてきた養豚、養羊は減少傾向にある。アーモンド、オリーブ、穀物生産が行われ、灌漑設備を利用してサクランボやモモの果樹栽培が行われる。
歴史
編集メキネンサには先史時代の定住地Los Castelletsがあった。
ローマ時代、ローマ人がオクトゲサ(Octogesa)を建設した。ローマ衰退後は西ゴート族に占領され、その後はベルベル人に征服された。アル・アンダルス時代は、ミクナサ・アル=ザイトゥン(Miknasa al-Zaytun)またはミクナサ・デ・ロス・オリボス(Miknasa de los Olivos)の名で知られた。714年から719年の間に町が建設されたと信じられている。この時代にメキネンサに城が建てられた。年代記作家アル=イドリシは、「小さいが非常に堅固、そしてアル・アンダルス国境において強力に見える」と記している。
レコンキスタ時代に初めてメキネンサ攻略が試みられたのは1133年だった。アラゴン王アルフォンソ1世は征服に成功するが、同じ年のうちにムラービト朝が奪還した。最終的にバルセロナ伯ラモン・ベレンゲー4世が征服を完了したのは1149年10月、リェイダとフラガ攻略と同日であった。
半世紀後のメキネンサは王領の代官区となり、アイトナおよびセロスとともにモントカダ家の荘園となっていた。モントカダ家がメキネンサ城を建てた。レコンキスタ時代のこの3つのビリャ(町)の住民はイスラーム教徒が大半を占めていた。その後数年間、メキネンサとフラガの間で境界をめぐる争いが続いた。1348年には黒死病流行で多くの住民が死んだ。15世紀から16世紀は、幾度かの反乱のために悲劇と飢餓が起きた。
ナポレオン戦争期の1810年、スーシェ将軍は1149年にバルセロナ伯がしたようにメキネンサ、フラガ、リェイダを占領した。ナポレオンが勝利した戦いの一つとして、メキネンサの名がパリのエトワール凱旋門に刻まれている。メキネンサはカルリスタ戦争、そしてスペイン内戦におけるエブロの戦いの舞台となった。エブロの戦いではメキネンサの橋が破壊され、1950年代まで復興がなされなかった。1957年から1964年にかけ、水力発電用に巨大なダムが建設された。
政治
編集任期 | 首長名 | 政党 |
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1979–1983 | Miguel Godia Ibarz | PSOE |
1983–1987 | Santiago Oliver Castelló | PSOE |
1987–1991 | Sebastián Caballé Arbonés | PSOE |
1991–1995 | Sebastián Caballé Arbonés | PSOE |
1995–1999 | Sebastián Caballé Arbonés | PSOE |
1999–2003 | Jaime Borbón Oliver | IU |
2003–2007 | Jaime Borbón Oliver | IU |
2007–2011 | Magdalena Godia Ibarz | PSOE |
2011–2015 | Magdalena Godia Ibarz | PSOE |
2015–2019 | Magdalena Godia Ibarz | PSOE |
2019–2023 | n/d | n/d |
2023– | n/d | n/d |
人口
編集メキネンサの人口推移 1842-2008 |
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[1]、1996年 - [2] |