ムバーラク・アリー・ハーン
ムバーラク・アリー・ハーン(Mubarak Ali Khan, 1759年 - 1793年9月6日)は、東インドのベンガル太守(在位:1770年 - 1793年)。
ムバーラク・アリー・ハーン Mubarak Ali Khan | |
---|---|
ベンガル太守 | |
ムバーラク・アリー・ハーン | |
在位 | 1770年 - 1793年 |
戴冠式 | 1770年3月26日 |
別号 | ナワーブ |
出生 |
1759年 ムルシダーバード |
死去 |
1793年9月6日 ムルシダーバード、ムルシダーバード城 |
埋葬 | ジャアファルガンジ・セメタリー |
子女 | バーバル・アリー・ハーン |
王朝 | ナジャフィー朝 |
父親 | ミール・ジャアファル |
宗教 | イスラーム教 |
生涯
編集1759年、ベンガル太守ミール・ジャアファルの五男として生まれた[1]。
1770年3月10日、兄の太守アシュラーフ・アリー・ハーンが天然痘で死亡したことにより、ムバーラク・アリー・ハーンが太守位を継承した[1]。翌1771年6月16日にムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世にも追認された[1]。とはいえ、ムバーラク・アリー・ハーンは幼かったため、継母のムンニー・ベーグムと副太守のムハンマド・レザー・ハーンのもとで統治した[1]。
1772年5月14日、ベンガル知事ウォーレン・ヘースティングスは皇帝から授けられたディーワーニーを受諾し、自ら徴税業務を行うことにし、同時に行政・司法も直接統治に移行されることとなった[2][3][4]。ここにベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガルの植民地化は決定した。またこのとき、代替わりの度に減額されていた太守への内廷費は160万ルピーへと固定された[2]。
1793年9月6日、ムバーラク・アリー・ハーンは死亡し、息子のバーバル・アリー・ハーンが太守位を継承した。
脚注
編集参考文献
編集- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創士社、2009年。