ムハンマド・ブハリ

ナイジェリアの元大統領

ムハンマド・ブハリ(Muhammadu Buhari ムハンマドゥ・ブハリ1942年12月17日 - )は、ナイジェリア軍人政治家カツィナ州出身のフラニ人で、イスラム教徒である。

ムハンマド・ブハリ
Muhammadu Buhari


任期 2015年5月29日2023年5月29日
副大統領 イェミ・オシバジョ英語版

ナイジェリアの旗 ナイジェリア連邦共和国
最高軍事評議会議長元首
任期 1983年12月31日1985年8月27日

ナイジェリアの旗 ナイジェリア連邦共和国
国営石油公社総裁
任期 1978年6月 – 1978年7月

ナイジェリアの旗 ナイジェリア連邦共和国
石油・天然資源大臣
任期 1976年3月 – 1978年6月
元首 オルセグン・オバサンジョ

ナイジェリアの旗 北東部州
第2代 知事
任期 1975年8月 – 1976年3月
元首 ムルタラ・ムハンマド

出生 (1942-12-17) 1942年12月17日(81歳)
ナイジェリア、カツィナ州
政党 全ナイジェリア人民党→)
進歩変革会議

1983年12月31日クーデターシェフ・シャガリ文民政権を打倒し、1985年8月27日までナイジェリアの国家元首を務めるもイブラヒム・ババンギダのクーデターによって打倒された。

2015年3月31日、ナイジェリア大統領選挙で、現職のグッドラック・ジョナサンを破り、大統領に当選した。[1]

軍歴

編集

ブハリは1942年12月17日にカツィナ州で生まれ、1962年に19歳でナイジェリアの陸軍士官学校に入学し[2]、1962年から1964年までイギリスサンドハースト王立陸軍士官学校で軍事訓練を受けた[3]

1975年に誕生したムルタラ・ムハンマド軍事政権の下では北東部州英語版の州知事に任命され、1976年に北東部州が解体されるとボルノ州の初代知事を務めた。

1976年にオルセグン・オバサンジョ軍事政権の下で石油・天然資源大臣に任命され、石油パイプラインや貯蔵インフラの整備を推し進めた[4]1977年には新設されたナイジェリア国営石油公社の総裁に任命されて1978年までその地位にあった[5][6]

1979年から1980年までアメリカ陸軍戦略大学に留学して修士号を授与された[7]

ブハリ主義

編集

1983年12月31日に当時第3機甲師団英語版の師団長だったブハリを中心とするナイジェリア軍将校がクーデターを起こし[8]、民政移管で成立したシェフ・シャガリ政権を打倒した。ブハリは国家元首である軍事評議会議長に就任すると、文民政権は絶望的なまでに腐敗し、社会から道徳が失われたとしてクーデターを正当化した[9]

ブハリの政策はブハリ主義英語版と呼ばれ[10][11]、特に「無規律との戦い英語版」と称した国民キャンペーンによる綱紀粛正は熾烈さを極め、ナイジェリアの人々はバス停エレベーターで整列しなければ鞭打ちで罰せられ、軽微な犯罪でも死刑に処された[12]報道の自由を抑圧して罪状なしでも3ヶ月まで反対派を拘禁できる法案を通過させ[13]ストライキデモは禁止され、1984年10月までに汚職を理由に約20万人の公務員を解雇して約500人の政治家や実業家が投獄され[14][15]、著名なミュージシャンで政治評論家でもあるフェラ・クティに懲役10年の刑を宣告し、アムネスティに政治的な弾圧であるとして非難を浴びた[16]。また、国際通貨基金(IMF)がナイラを60%切り下げるよう要求したとき、IMFとの関係を断絶した。しかし、ブハリが自ら推進した経済改革はIMFが要求したものより厳格であった[17][18]

1985年8月27日にイブラヒム・ババンギダによって打倒され[19]、ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。ブハリ支持者は、ブハリの政策がその規律正しさで具体的な成果を出し始めたゆえに腐敗した勢力に打倒されたと信じていた[20]

民主化後

編集

釈放後、ブハリはサニ・アバチャ政権下で石油信託基金の総裁に就任した[21]

民主化後、2003年にはブハリは全ナイジェリア人民党から大統領候補として選挙に出馬したが[22]、人民民主党の現職大統領オルセグン・オバサンジョに11万票差をつけられ敗北した。この結果に対し、ブハリは不正選挙がおこなわれたとして受け入れを拒否した。この後、ブハリは北部と軍の支持をバックに、保守派の有力政治家となっていった。北部諸州がシャリーアを導入して連邦政府と対立した際には、ブハリは北部を支持してオバサンジョ大統領と対立を深めた。

2006年の大統領選挙にも出馬したものの、いずれも次点に終わった。2006年の選挙では彼の対抗馬は同じカツィナ州出身のウマル・ヤラドゥアであり、ブハリの地盤とする北部票が蚕食される結果に終わった。得票はヤラドゥアの70%に対し、ブハリは18%にすぎなかった[23]。ブハリはこの結果も受け入れを拒否した。選挙後、全ナイジェリア人民党はヤラドゥア政権入りを決めたが、ブハリはこれにも異を唱え、2010年3月には全ナイジェリア人民党から離党して新党である進歩変革会議を結党した。

2011年4月6日の大統領選挙においては、ブハリは有力候補とみなされていたものの、南部を地盤とした現大統領グッドラック・ジョナサンに100万票以上の差をつけられて大敗を喫し、またも次点に終わった[24]。これにより、開票結果が発表された18日からブハリ支持者の多い北部を中心に暴動が勃発し、500人以上が死亡した[25]

大統領として政権復帰

編集

2015年3月31日、大統領選挙で当選して現職のグッドラック・ジョナサンを破り、同年5月29日にナイジェリア第15代大統領に就任した。就任半年後の11月11日、組閣にこぎつけた[26]

2019年2月23日に実施された大統領選挙に勝利して再選した[27]

政策

編集

経済

編集

2015年8月、ブハリは財務省単一口座(TSA)の導入を開始。これは、さまざまな政府準国家の歳入徴収を一元化するために行われた。彼はTSAが連邦政府内の汚職の削減に役立つと信じており、2017年2月までに納税者の納税額が5兆2,440億ナイラ節約されたと見積もっている[28]

汚職対策

編集

ブハリはムルタラ政権下から強い反汚職を主張する人物として知られていた[29]。1980年代に彼が行った無規律との戦いでは、腐敗の根絶も方針に入っていた。2016年には、サニ・アバチャが登録したスイス口座に潜む3億ドルの不正資金を回収、ある程度の勝利を収めた[30][31]

外交

編集

ブハリはミャンマー国軍によるロヒンギャに対する弾圧を民族浄化、つまりジェノサイドであると述べ、ルワンダ虐殺のような惨事が起こってしまうとミャンマーの軍事政権を厳しく批判した[32]。また、女性の権利を擁護し、女性少女に対する暴力を終わらせるための世界条約の締結を呼びかけた初めての大統領である[33]

脚注

編集
  1. ^ ナイジェリア大統領選挙について(外務大臣談話)” (Apr 2015). 2015年4月2日閲覧。
  2. ^ Obotetukudo, Solomon (2011). The Inaugural Addresses and Ascension Speeches of Nigerian Elected and Non elected presidents and prime minister from 1960 -2010. University Press of America. p. 90.
  3. ^ The Times, "US overtakes Britain at educating leaders" (September 5, 2019), pg. 19
  4. ^ "Nigeria's Oil Production on Increase." Afro-American (1893–1988): 16. 16 December 1978.
  5. ^ アーカイブされたコピー”. 2009年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月22日閲覧。
  6. ^ Troubled journey By Levi Akalazu Nwachuku, G. N. Uzoigwe
  7. ^ “[A Rejoinder To 'Semi-Illiterate' PDP Secretary Prof. Wale Oladipo By Dr. M.K. Hassan http://saharareporters.com/2014/12/22/rejoinder-semi-illiterate-pdp-secretary-prof-wale-oladipo-dr-mk-hassan]” (2014年12月22日). 2020年12月3日閲覧。
  8. ^ Matthews, Martin P. Nigeria: current issues and historical background. p. 121.
  9. ^ Graf, William (1988). The Nigerian state: Political economy, state class, and political system in the post-colonial era. London: James Currey. ISBN 978-0-85255-313-8. p.149
  10. ^ Sanusi Lamido Sanusi (22 July 2002). “Buharism: Economic Theory and Political Economy”. Lagos. http://www.gamji.com/sanusi/sanusi26.htm 2020年12月3日閲覧。 
  11. ^ Mohammed Nura (14 September 2010). “Nigeria: The Spontaneous 'Buharism' Explosion in the Polity”. Leadership. http://allafrica.com/stories/201009140173.html 2020年12月3日閲覧。 
  12. ^ Clifford D. May (10 August 1984). "Nigeria's discipline campaign: Not sparing the rod". The New York Times.
  13. ^ Falola, Toyin and Matthew M. Heaton. A History of Nigeria. p. 214.
  14. ^ “Nigeria's Muhammadu Buhari in profile”. BBC News. (17 April 2011). https://www.bbc.co.uk/news/world-africa-12890807 2020年12月3日閲覧。 
  15. ^ Nigeria: Human Rights Watch Africa”. africa.upenn.eu (10 May 1996). 2015年1月19日閲覧。
  16. ^ Shola Adenekan (2006年2月15日). “Obituary: Dr Beko Ransome-Kuti”. The Guardian. http://www.guardian.co.uk/news/2006/feb/15/guardianobituaries.mainsection 2011年4月20日閲覧。 
  17. ^ Vreeland, James Raymond (19 December 2006). The International Monetary Fund: Politics of Conditional Lending. Routledge. p. 60. ISBN 978-0-415-37463-7.
  18. ^ Mathews, Martin P. (1 May 2002). Nigeria: Current Issues and Historical Background. Nova Science Publishers, Inc. p. 122. ISBN 978-1-59033-316-7.
  19. ^ Muhammad Buhari (head of state of Nigeria) - Britannica Online Encyclopedia”. Britannica.com. 2011年4月20日閲覧。
  20. ^ Max Siollun (October 2003). "Buhari and Idiagbon: A Missed Opportunity for Nigeria". Dawodu.com.
  21. ^ Development: PTF - shining in the gloom” (June 1998). 2011年11月4日閲覧。
  22. ^ “Nigeria: Facts and figures”. BBC News. (April 17, 2007). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/6508055.stm 
  23. ^ "Huge win for Nigeria's Yar'Adua", BBC News, April 23, 2007.
  24. ^ Festus Owete (2011年4月21日). “Congress for Progressive Change considers going to court”. Next. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月22日閲覧。
  25. ^ [1]
  26. ^ [2]
  27. ^ “ナイジェリア大統領選、現職ブハリ氏再選”. Reuters. (2019年7月27日). https://fr.reuters.com/article/nigeria-election-buhari-idJPKCN1QG0PG 2020年12月3日閲覧。 
  28. ^ Co-ordination mechanisms for implementing integrity policies, OECD, (2017-07-13), pp. 154–155, ISBN 978-92-64-26872-2, https://doi.org/10.1787/gov_glance-2017-52-en 2023年7月21日閲覧。 
  29. ^ Smith, Nola (2000-02). Hopper, Edna Wallace (17 January 1864?–14 December 1959), actress, entrepreneur, and financier. Oxford University Press. https://doi.org/10.1093/anb/9780198606697.article.1800592 
  30. ^ The disastrous Abacha years, Zed Books, (2015), https://doi.org/10.5040/9781350221529.ch-017 2023年7月21日閲覧。 
  31. ^ Kidder, C P (1946-01-25). 300 Area, January 15--January 21. https://doi.org/10.2172/10175681. 
  32. ^ “Active reviewers (from October 1, 2016 through September 30, 2017)”. Pediatric Radiology 47 (13): 1703–1706. (2017-11-17). doi:10.1007/s00247-017-4017-4. ISSN 0301-0449. https://doi.org/10.1007/s00247-017-4017-4. 
  33. ^ True, Jacqui (2020-11-12), What Is Violence against Women and Girls (VAWG)?, Oxford University Press, https://doi.org/10.1093/wentk/9780199378944.003.0001 2023年7月21日閲覧。 
公職
先代
グッドラック・ジョナサン
  ナイジェリア連邦共和国大統領
第15代:2015 - 2023
次代
ボラ・ティヌブ
先代
シェフ・シャガリ
  ナイジェリア最高軍事評議会議長
1983 - 1985
次代
イブラヒム・ババンギダ
外交職
先代
ランサナ・コンテ
ギニア
西アフリカ諸国経済共同体議長
第9代:1985
次代
イブラヒム・ババンギダ
ナイジェリア
先代
フォール・ニャシンベ
トーゴ
西アフリカ諸国経済共同体議長
第32代:2018 - 2019
次代
マハマドゥ・イスフ
ニジェール