ムハンマド・アミーン

ヤルカンド・ハン国のハン

ムハンマド・アミーン(Muhammad Amin、生年不詳 - 1694年)は、今の中国西北部新疆ウイグル自治区にあったヤルカンド・ハン国ハン[3]

概要

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ヤルカンド・ハン国第15代ハンのアブドゥッラシード・ハン2世の弟、同第14代ハンのイスマーイールの孫。

ムハンマド・アミーンはハンとしての権威を回復しようとして、外部の支援を求めた。 ムハンマド・アミーンは2度、トルファンのハンの名で朝貢し、1690年にはムガル帝国に使節を送った。翌年、ムハンマド・アミーンは使節をブハラ・ハン国のハンであるスブハーン・クリー・ハーン英語版のもとに派遣した。 「国の支配権を獲得した」「清の異教徒(ジュンガルを意味する)」に対する助けを求めている。

1693年から1694年、ムハンマド・アミーンはジュンガルの首都イリに対して遠征軍を率い、30000人以上のカルムイク人またはオイラトを捕らえた。ムハンマド・アミーンは1694年のホージャ・アファークの信奉者による反乱の最中に倒され、殺された。

脚注

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  1. ^ 丸山鋼二 2014, pp. 49, 54.
  2. ^ 丸山鋼二 2014, p. 50.
  3. ^ 「1680年にのジュンガル軍がヤルカンドを占領し、イスマーイールがハンを退位したことをもって、ヤルカンド・ハン国は実質的に滅亡した」[1]、「ヤルカンド・ハン国のハンは、アブドゥッラシード・ハン2世の代で終了」[2]、とする資料もある。

参考文献

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  • 丸山鋼二「ヤルカンド・ハン朝の建国と「聖戦」: 新疆イスラム教小史⑦」『文教大学国際学部紀要』第24巻第2号、文教大学、2014年1月、47-64頁、CRID 1050001338027025664ISSN 0917-3072NAID 120006420345 
先代
アブドゥッラシード・ハン2世
ヤルカンド・ハン国の君主
1682年 - 1694年
次代
イスマーイール