ムハンマド・アブドゥフ

エジプトのイスラーム法学者

ムハンマド・アブドゥフアラビア語: محمد عبده‎、Mohammed Abduh、1849年 - 1905年7月11日)は、エジプト出身のウラマー(イスラーム法学者)でイスラーム改革思想家。アブドゥとも表記される。

イスラーム改革思想家アフガーニーの弟子であるアブドゥフは、ムハンマド・アリー朝の極端な西洋化政策を批判しつつも、西洋の技術を取り入れることとイスラームは矛盾しないと説いた。一方でイスラームの伝統に必要以上に固執する従来のウラマーの姿勢も批判し、イスラームが成立した当時の精神に立ち返って柔軟な法解釈(イジュティハード)を行うべきであるという主張を行った。

彼の唱えた近代的なイスラム主義は、中世のイスラム黄金時代のムゥタズィラ派に例えて、ネオ・ムゥタズィラ派とも呼ばれる。

経歴

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ムハンマド・アブドゥフの経歴はもともと、典型的なウラマーの学歴であった。カイロにあるアル=アズハル大学で学んだ。しかし、学生のときに、ジャマールッディーン・アフガーニーの思想に共鳴し、1877年にアル=アズハルを出ると教鞭をとっていたが、アフガーニーのエジプト追放に連座する形で、1879年にカイロを追い出された。翌年には、カイロに戻り、ウラービー革命に参加した。

アフマド・アラービーによる1882年の革命(ウラービー革命)に関わったため、一時期亡命生活を送った。1884年にはアフガーニーと共にアラビア語による評論誌『固き絆』を亡命先のパリで刊行している。アブドゥフの思想はエジプトのみならずイスラーム世界全体に大きな影響を与えたほか、その思想はアブドゥフの弟子であるシリア出身のラシード・リダーらに引き継がれることになった。

パリを離れると、ベイルートを経て、1888年にエジプトへと戻った。イスラーム法学者として様々な職についたのち、1899年よりムフティーに就き、1905年に死去するまで、生涯その地位にとどまった。

関連項目

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