マルティヌス4世 (ローマ教皇)
マルティヌス4世(Martinus IV, 1210年(1220年とも)? - 1285年3月28日)は、ローマ教皇(在位:1281年 - 1285年)。フランス・トゥーレーヌの出身で、本名はシモン・ド・ブリオン(Simon de Brion)。
マルティヌス4世 | |
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第189代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1281年2月22日 |
教皇離任 | 1285年3月28日 |
先代 | ニコラウス3世 |
次代 | ホノリウス4世 |
個人情報 | |
出生 |
1210年から1220年 フランス王国、トゥーレーヌ |
死去 |
1285年3月28日 教皇領、ペルージャ |
その他のマルティヌス |
生涯・人物
編集ボローニャ大学で学び、1238年に司教座聖堂参事会員に任命され、1248年にルーアンの助祭枢機卿、1259年から1261年までフランス王ルイ9世の秘書を務めた。1261年にウルバヌス4世に司祭枢機卿に任命、1264年ではクレメンス4世から教皇使節に任命され、1269年まで務めたが、グレゴリウス10世によって1274年に再任、1279年まで教皇使節として活動した。
1280年8月22日のニコラウス3世の没後コンクラーヴェが開かれたが、1281年2月に半年経っても次期教皇が決まらない事に苛立ったローマ市民が乱入、枢機卿を連れ去る騒ぎに発展したが、シチリア王シャルル・ダンジューが鎮圧、22日にシモンが教皇に選ばれ、マルティヌス4世を名乗った。
在任中はシャルルに依存しきっており、彼をローマ元老院議員に任命、東ローマ帝国皇帝ミカエル8世を破門、シャルルの東ローマ帝国遠征を支持、第2リヨン公会議で宣言された東西教会の合同も取り消してしまった。1282年、シチリアの晩祷事件が発生し、シャルルはシチリアを失い、島の住民から教皇の直接統治を懇願された。マルティヌス4世はこれを拒否し、逆に全島民、および代わってシチリア王に即位したアラゴン王ペドロ3世を破門にしたが、結局シャルルはシチリアを奪還できず、甥のフランス王フィリップ3世共々敗北を重ねた。
1285年、ペルージャで死去。シャルル、フィリップ3世、ペドロ3世も同年に死亡した。
ダンテ・アリギエーリの『神曲』ではボルセーナ湖産鰻のヴェルナッチャ・ワイン漬の炙り焼きを過食し、死後煉獄で贖罪の日々をおくっている[1]。このいわれから、鰻と白ワインの組み合わせで食するのを忌避する言い伝えがイタリア料理では残っているという。