マリア・アンナ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク

マリア・アンナ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク(ドイツ語:Maria Anna Karoline von der Pfalz-Neuburg, 1693年1月30日 - 1751年9月12日)は、バイエルン選帝侯フェルディナントの妃。

マリア・アンナ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク
Maria Anna Karoline von der Pfalz-Neuburg

出生 (1693-01-30) 1693年1月30日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア、ライヒシュタット(現ザークピ
死去 (1751-09-12) 1751年9月12日(58歳没)
ミュンスター司教領、アーハウス
配偶者 フェルディナント・フォン・バイエルン
子女 マクシミリアン・ヨーゼフ・フランツ
クレメンス・フランツ・デ・パウラ
テレーゼ・エマヌエーレ
家名 プファルツ=ノイブルク家
父親 フィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツ
母親 アンナ・マリア・フランツィスカ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
宗教 キリスト教カトリック
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生涯

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マリア・アンナ・カロリーネはフィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツアンナ・マリア・フランツィスカ・フォン・ザクセン=ラウエンブルクの次女である。

1693年、父フィリップ・ヴィルヘルムと姉レオポルディーネが相次いで死去した。母アンナ・マリアは1697年7月2日デュッセルドルフで後にトスカーナ大公となるジャン・ガストーネ・デ・メディチと再婚した。母アンナ・マリアとジャン・ガストーネは結婚当初はフィレンツェではなく、母アンナ・マリアのボヘミアの領地にあったプロスコヴィツェ城に住んだが、1年もたたないうちにジャン・ガストーネは母アンナ・マリアをプラハに残し、1708年にはフィレンツェに戻った。

1719年2月5日にライヒシュタット(現ザークピ)でフェルディナント・フォン・バイエルンと結婚した。1723年、継父ジャン・ガストーネがトスカーナ大公となり、母アンナ・マリアはトスカーナ大公妃となったがトスカーナに行くことはなかった。

1738年に夫フェルディナントが死去し、マリア・アンナ・カロリーネは1751年に死去した。

子女

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  • マクシミリアン・ヨーゼフ・フランツ(1720年 - 1738年)
  • クレメンス・フランツ・デ・パウラ(1722年 - 1770年) - バイエルン選帝侯位の事実上の継承者であったが、継承前に死去。
  • テレーゼ・エマヌエーレ(1723年 - 1743年)

参考文献

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  • Johannes Erichsen and Katharina Heinemann (ed.): Die Schlacht von Höchstädt. Brennpunkt Europas 1704, Jan Thorbecke, Ostfildern, 2004, ISBN 3-7995-0214-9