マックスフィールド・パリッシュ
マックスフィールド・パリッシュ(英: Maxfield Parrish、1870年7月25日 - 1966年3月30日)は、アメリカの画家。イラストレーター。ポスター、雑誌の表紙や挿絵で人気を博した。父は銅版画家兼風景画家、スティーブン・パリッシュ(1845年-1938年)。
マックスフィールド・パリッシュ Maxfield Parrish | |
---|---|
26歳のマックスフィールド・パリッシュ | |
生誕 |
Frederick Parrish 1870年7月25日 アメリカ合衆国 ペンシルバニア州フィラデルフィア |
死没 | 1966年3月30日 (95歳没) |
国籍 | アメリカ合衆国 |
教育 | ペンシルバニア美術アカデミー |
著名な実績 | 絵画 |
生涯
編集ペンシルベニア州フィラデルフィア市で生まれる。本名はフレデリック・パリッシュであるが、ミドルネーム、およびペンネームとして、父方の祖母の旧姓であるマックスフィールドを用いた。
幼い頃から絵の才能を示し、両親は1884年から1886年の間、パリッシュを連れてヨーロッパを旅した。ペンシルベニア州ハバフォードのハバフォード大学で建築を学んだ後、1892年から1895年の間、ペンシルベニア美術アカデミーでロバート・ヴォノーやトマス・アンシュッツに学んだ。卒業後、マサチューセッツ州のアニスクアムに父親とスタジオを開いた。一年後、ドレクセル美術・科学・産業協会(現在のドレクセル大学)に進んだ。そこでは有名なイラストレーターのハワード・パイルが教師をしていて、後にパイルの弟子のイラストレーターたちは「ブランデーワイン派」と呼ばれることになる。
商業美術の世界で仕事を始め、1895年に作品がファッション雑誌「ハーパーズ バザー」に掲載された。「Scribner's Magazine」などの雑誌の仕事も行い、1897年にライマン・フランク・ボームの少年向け書籍の挿絵を描いた。19世紀後半の「イラストレーションの黄金時代」を形成したイラストレーターの一人となった。1900年までにアメリカ芸術家協会(Society of American Artists)の会員になった。1903年にヨーロッパを旅しイタリアを訪れた。1920年代まで多くの商業美術の仕事をした。
その作品において、極めて美しく清澄な青色を表現したことで知られており、この青色は「パリッシュ・ブルー」と呼ばれる。