マクミリアン・ピルナー
マクミリアン・ピルナー(Maxmilián Pirner、1854年2月13日 - 1924年4月2日[1])はチェコの画家、イラストレーターである。アカデミック美術の作品や象徴主義のスタイルの作品を描いた。プラハの美術アカデミーの教授も務めた。
マクミリアン・ピルナー Maxmilián Pirner | |
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1880年ころのマクミリアン・ピルナー | |
生誕 |
1854年2月13日 現チェコ、スシツェ(Sušice) |
死没 |
1924年4月2日 (70歳没) プラハ |
略歴
編集現在のチェコ、プルゼニ州のスシツェ(Sušice)の法律家の息子に生まれた[2]。1872年から1874年の間はプラハの美術アカデミーで、1875年からはウィーン美術アカデミーでヨーゼフ・マティアス・トレンクヴァルトのもとで学んだ。1879年までトレンクヴァルトのスタジオで働き、1878年からはミュンヘンに留学し、1880年にはアルプスを旅し、1883年にはイタリアを旅した。
ウィーンで活動した後1887年にプラハの美術アカデミーで風俗画の教師として招聘され、1896年に教授の称号を得て人物画の教室で教えた。何度かアカデミーの部長 (rektorem)も務めた。1894年にプラハで結婚した。1899年に美術家組合(Jednoty umělců výtvarných)の会員になった[3]。
ウィーン分離派の創立メンバーであり、1898年の第1回ウィーン分離派展に出展した。
ピルナーの教えた学生にはヤン・パシェク(Jan Pašek: 1891 in Lieben/Libeň; † 1960)や彫刻家のアロイス・リーバー(Alois Rieber: 1876-1944)らがいる。画家のヨゼフ・マンドル(1874-1933)にも影響を与えた。
プラハで亡くなった。象徴主義のスタイルの絵画や本の挿絵を描いた。
作品
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"V rozkvětu" (1883)
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"Černá Káča" (1895)
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"Gulliver mezi skřítky" (1910)
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"Homo homini lupus" (1901)
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すべての終わり(Konec vsech veci) (1887)
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妖精のお葬式
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ヘカテー (1901)
脚注
編集- ^ Matriční záznam o úmrtí a pohřbu při kostele sv. Václava na pražském Smíchově
- ^ Matriční záznam o narození a křtu farnosti Sušice
- ^ abART: profesor Maxmilián Pirner
参考文献
編集- Blažíčková-Horová Naděžda, Sekyrka Tomáš (eds.), Odkaz Josefa Hlávky Národní galerii v Praze, Národní galerie v Praze 2008, ISBN 978-80-7035-391-2
- Nová encyklopedie českého výtvarného umění díl II., N–Ž, Academia Praha 1995, s. 615–616.
- Prahl Roman, Maxmilián Pirner (1854–1924), Katalog výstavy NG Praha 1987
- Matějček Antonín, Soubor díla Maxe Pirnera, 78. a 79. výstava SVU Mánes, Praha 1924
- Šuman V., Maxmilián Pirner 1854–1924, Praha 1924