マイケル・ポランニー

ハンガリー出身の学者

マイケル・ポランニー: Michael Polanyi ハンガリー語: Polányi,Mihályポラーニ・ミハーイ), 1891年3月11日 - 1976年2月22日)は、ハンガリー出身のユダヤ系ハンガリー人物理化学者・社会科学者・科学哲学者。日本語での表記にはマイケル・ポラニーもある。暗黙知層の理論創発境界条件境界制御・諸細目の統合と包括的全体、等の概念を1950年代に提示した。

マイケル・ポランニー

生涯

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1891年ブダペストでポランニー家の第5子として生まれる。中学校はエリート養成校だったミンタ・ギムナジウムハンガリー語版に通い、ブダペスト大学の医学部で学んだ。大学生時代は、兄のカール・ポランニーが委員長を務めるガリレイ・サークルに参加し、社会民主運動にも関わる[1]1912年、4月~6月カールスルーエ大学にブレディッヒ教授を頼って遊学。化学への関心を深めた。[要出典]

ハンガリーに戻ったのちの1913年ブダペスト大学卒業。医学博士号を取得。[要出典]1914年にブダペスト大学を卒業した[1]同年に再びカールスルーエ大学に移籍するが、このとき第一次世界大戦勃発。既にこの頃アルベルト・アインシュタインと文通をしていた。[要出典]第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー軍の軍医としてセルビア方面に従軍し、1916年に負傷して療養生活を送る。この時期に博士論文を書いた[1]1917年にブダペスト大学から化学博士号を授与された。[要出典]

ハンガリーでは1918年にアスター革命ハンガリー語版が起きてカーロイ・ミハーイハンガリー語版政権が成立し、マイケルは保健相の秘書として働いた。政権が短命に終わりハンガリー・ソヴィエト共和国が成立すると学業に戻り、同国の崩壊によって1920年にドイツに亡命した。ドイツではカイザー・ヴィルヘルム学術振興協会のパルプ化学研究所に勤め、1923年に同協会の生物化学および電気化学研究所に移る。同年にカトリックに改宗し、マグドルナ・エルジェーベト・ケメーニ(Magda Elizabeth Kemeny)と結婚し、1929年に息子のジョン・ポランニーが誕生した[2]1928年レオ・シラードユージン・ウィグナージョン・フォン・ノイマンとともにソ連問題研究会をつくった。[要出典]

ナチスの台頭によって研究が難しくなったマイケルは、1933年に家族と共にイギリスのマンチェスターに移住した。マンチェスター大学の物理化学の教授として1948年まで勤め、1944年にロイヤル・ソサエティのメンバーに選ばれ、当時の教え子だったユージン・ウィグナーメルヴィン・カルヴィンは後にノーベル賞を受賞した。ドイツ時代に交流があった化学者の堀内寿郎もイギリスに渡り、マイケルと堀内はいくつかのプロジェクトで研究をした[3]

1948年に、研究のフィールドを社会科学に移した。その理由は、科学における自分の発見の過程を理論的・哲学的に整理しようとしたという説がある。また、1935年にソ連を訪問した際にニコライ・ブハーリンと会見したことを原因とする説もある[注釈 1]。マイケルは暗黙知の概念を見出し、科学研究を政治的立場やイデオロギーから解放することを模索するようになった。マンチェスター大学では社会科学教授として1948年から1958年、オックスフォード大学では主任研究員として1959年から1961年まで歴任した。1962年にアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選ばれ、同年から1963年にバロアルトの研究所、1964年にデューク大学、1965年から1966年にはウェズリアン大学に勤めた。1975年、ノーサンプトンの病院にて死去した[4]

一族

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次兄は経済人類学カール・ポランニー。息子はジョン・ポランニー1986年ノーベル化学賞を受賞した物理化学者)である。

業績

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化学、医学、生理学、物理学、哲学など多岐に渡る研究分野でノーベル賞級の研究成果を残したと言われる。息子のジョン・ポランニーは1986年にノーベル化学賞を受賞しており、ジョンの研究もマイケルとの共同研究の成果だった[5]

マンチェスター大学の物理化学教授時代の研究分野は、吸着のポテンシャル説(最初の論文は1914年に書かれて50年間近く評価されなかった。現在ではシリカゲルや活性炭等の消臭効果等で知られている)、X線解析、結晶構造化学反応速度論などだった[3]。物理化学者として219編の論文と1冊の著書を残した。化学と物理学を明確に分けた論文(反応のポテンシャル曲面論)を認めさせた点でも高く評価されている[要出典]

科学哲学者としては暗黙知層の理論を提示し、新たな哲学を構築した。モーリス・メルロー=ポンティ以外、西欧哲学とはあまり接点がない。

主要著書

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脚注

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注釈

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  1. ^ ブハーリンは科学に自立性を認めず、科学は社会主義思想に奉仕すべきと主張したため、マイケルは社会主義を懐疑するようになったという[3]

出典

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  1. ^ a b c 木村 2019, p. 164.
  2. ^ 木村 2019, pp. 164–165.
  3. ^ a b c 木村 2019, p. 165.
  4. ^ 木村 2019, pp. 165–166.
  5. ^ 木村 2019, p. 166.

参考文献

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  • 木村香織『亡命ハンガリー人列伝 脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』パブリブ〈世界ディアスポラ列伝〉、2019年。 

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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