ポール岡田(又は岡田ポール、本名・長岡和彦、1947年8月13日 - )は、日本ミュージシャン[1]

滋賀県大津市出身。1969年5月、グループ・サウンズバンド、ザ・カーナビーツの2代目ボーカリストとして加入するが5ヶ月でグループは解散する。解散後、1969年12月から翌1970年2月末まで渋谷東横劇場で上演された日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」にウーフ役で出演。その後は再びボーカリストとしてソロ、男女デュオなどで数枚のレコードをリリースした。

1970年代末、偶然紹介された伊集院静の誘いで、音楽活動を諦め、本名の長岡和彦として広告業界へ転身[2]広告代理店・株式会社JMSクリエイティブセンターに入社、伊集院が小説家への転身で退社するまで約1年間は彼の部下スタッフを務め、その後も本体の株式会社ジャパン・マーケティング・サービスに移り、主にCMクリエイティブ・ディレクターとして音楽業界と関わりを続け、広告映像企画制作やファッション・イベント制作などを手掛けた。2001年に、中学・高校の一年後輩でビーイング長戸大幸の助言により、JMSを退社・個人会社を設立。2009年末にセミ・ドキュメンタリー小説「HAIR1969輝きの瞬間」をポール岡田名義で飛鳥新社より上梓。そのキッカケで、2010年から40年振りにバンド・ライブ活動を再開。息子は九州朝日放送アナウンサー・長岡大雅

経歴

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アマチュア時代

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通常より1年遅れて1967年甲南大学文学部に入学後、滋賀大学教育学部附属中学校滋賀県立膳所高等学校の同窓生で一学年後輩の長戸大幸をリーダーにしたアマチュア・バンド「The Sounds Of Weeds」を結成(その後、The WEEDSに改名)。当時の担当はサイド・ギター&ボーカル。WEEDSは大阪のジャズ喫茶「パラカ」「ナンバ一番」や京都の「ニューデルタ」などに出演。1968年、大学2年時に東京の音楽プロダクションのスカウトを受け、大学を休学して上京する。その後、同プロダクションを辞めて、1968年11月に「ザ・カーナビーツ」と同じ事務所に属する大阪出身のバンド「ザ・キャンディーズ」にボーカリストで参加。バンドリーダーは後に「シーチャン・ブラザーズ」、「上田正樹&サウス・トゥ・サウス」などでドラマーを務める井上茂。ザ・キャンディーズは、「銀座アシベ」「新宿アシベ」「池袋ドラム」など都内の人気ジャズ喫茶を中心にライブ活動をしたが、1969年4月に「ザ・カーナビーツ」ボーカル臼井啓吉が脱退したため、翌5月に後任の2代目ボーカリストとして抜擢された[3]

ザ・カーナビーツ時代

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1969年5月、「ザ・カーナビーツ」に2代目ボーカリストとして加入。
テレビ番組ではフジテレビ「ザ・ヒットパレード」にも出演。TBSヤング720」ではレッド・ツェッペリンの「コミュニケイション・ブレイクダウン」をソロで歌唱。当時のクレジットは永岡和彦又はポール岡田。計10枚のシングルを発売、1969年9月にザ・カーナビーツは解散。最後の演奏は銀座ACBの夜の部であった[3][4]

ヘアーへの出演

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1969年12月、日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」に出演。同年11月からの長期リハーサルに、寺田稔加橋かつみ、深水龍作、小坂忠堀内麻九大野真澄、萩かづこ(安藤和津)、シー・ユー・チェンなどと共に参加する。1969年12月5日、渋谷東横劇場で開幕する。主催は大手映画会社の松竹であった。公演途中から主役級のひとり「ウーフ」役を大野真澄とダブルキャストで演じるが、1970年2月、大麻事件の為に当初予定されていた大阪朝日座公演が中止され、延べ11万人の観客を動員した革命的ロック・ミュージカルの日本公演は3ヶ月で終わった[3]

ソロデビュー

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  • 1970年11月、東宝レコードから第1期アーティストとして「聖少女」でソロデビュー。

パイシスのデビュー

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  • 1974年末、アルファ&アソシエイツ(アルファレコードの前身の音楽制作会社)で 村井邦彦とミュージカル「ヘアー」のプロデューサーだった川添象郎のプロデュースで、武蔵野音楽大学出身のジャズ系アーティスト・寺門由紀子とデュエット・グループ「パイシス」を結成。所属事務所は田辺エージェンシー。1975年3月、パイシスとして東芝EMIからデビュー。
    • 1stシングルは「悲しみのティ・パーティ/アニマ・ミア」。カップリングの「アニマ・ミア」は、イタリアのソフトロック・グループ「Cugini di Campagna」のANIMA MIAのカバー曲。当初はA面を予定だったため、編曲&キーボードに深町純、ギターに高中正義、ドラムスは原田祐臣の顔触れが揃えられた。この時のクレジットは本名の長岡和彦になっている。

音楽プロデューサー、ディレクターとして

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化粧品キャンペーン音楽のプロデュースで、多数のヒット曲を生み出す。1978年、音楽アーティストの道を断念し、広告代理店に入社。最初に手掛けた仕事は化粧品の1978年夏のキャンペーン・ソングのプロデュース。パイシス時代のネットワークを活かし、アルファレコードの新人グループ「サーカス」を起用した「Mr.サマータイム」がオリコンチャートの1位を獲得(競合の資生堂矢沢永吉時間よ止まれ」の売上を上回る)。後にCMクリエイティブ・ディレクターとして数々のCM制作に携わる[3]

著書出版

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  • セミ・ドキュメンタリー小説「HAIR 1969 輝きの瞬間(とき)」を2009年12月5日、飛鳥新社より出版。著者名義はポール岡田[5]

音楽活動再開

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著書の出版後、2010年1月から40年振りに音楽ライブ活動を再開。渋谷クロコダイルでの「1969という名のLIVE」シリーズを1969スペシャル・バンドのサポートで開催中(年4回)。

2010年6月には、本の出版がきっかっけとなって実現した「ヘアー」日本公演のトライブの音楽ライブ「HAIR1969LIVE」を開催、その後も2010年12月、2011年6月とライブを開催している。約40年の封印を解いて結集した「ヘアー」1969年東横劇場公演出演トライブは、ポール岡田の他、「加橋かつみ大野真澄、深水龍作、堀内マーク、寺田稔安藤和津、坂本めぐみ、増田光子。バックバンドも当時のメンバーも柳田ヒロ水谷公生江藤勲などが参加している。

2011年7月からは、ブライアン片山(ギター、シタール、ダルシマー、ハープ、リコーダーetc)、TOBY(ベース)、MIHO(ギター)、TAKA(ドラムス)の誘いで、ブライアン・ジョーンズが在籍していた時期のローリング・ストーンズの楽曲だけをカバーするバンド東京Jajouka(ジャジューカ)の結成にも参加し、リード・ボーカルを担当している。

広告制作会社時代

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CM音楽プロデュース作品

CMプランナーとしても、セルジオ・メンデス&ブラジル77(オーデコロン)、シルヴィ・ヴァルタンコカ・コーラ・ライト)などの海外の音楽アーティスト出演CMも制作[3]

ディスコグラフィー

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[3]

ザ・カーナビーツは、ザ・カーナビーツ#ディスコグラフィを参照。

岡田ポール名義

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
東宝レコード
1970年10月 EP AS-1006 A 聖少女 ゆう・ゆたか 森田公一
B 終わった恋の色は

パイシス名義

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
東芝EMI/アルファ&アシシエイツ
1975年3月5日 EP ETP-20105 A 悲しみのティ・パーティ なかにし礼 有馬すすむ
B アニマ・ミア
1976年4月 EP ETP-20254 A 恋人と来ないで 荒井由実 松任谷正隆
B 陽だまり なかにし礼 村井邦彦 有馬すすむ

オムニバス

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サウンドトラック

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発売日 規格 規格品番 タイトル
RCAビクター
1969年12月 LP SRA-5168 ヘアー<日本版オリジナルキャスト盤>
1999年9月22日 CD BVCK-38043
東宝レコード
1971年 LP BR-1001 愛ふたたび

脚注

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出典

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  1. ^ "60年代GSブームから47年ぶりに復活、ポール岡田が語る「反骨精神」". AsageiBiz. 徳間書店. 24 August 2023. 2023年8月24日閲覧
  2. ^ "広告音楽プロデューサー、ポール岡田が語る恩人・伊集院静氏との出会い". Asagei Biz. 徳間書店. 1 September 2023. 2023年9月1日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h <飛鳥新社刊 ポール岡田著「HAIR1969 輝きの瞬間」著者略歴 P222~ 参照>
  4. ^ 徳間書店刊 黒沢進著「GS図鑑」カーナビーツの項 P78~ 参照>
  5. ^ <飛鳥新社刊 ポール岡田著「HAIR1969 輝きの瞬間」参照>