ポール・ラ・ジョワイエの戦い
ポール・ラ・ジョワイエの戦い(ポール・ラ・ジョワイエのたたかい、英: Battle at Port-la-Joye)は、ジョージ王戦争中の1746年夏に起こった、ニューイングランドと、現在のプリンスエドワード島ヒルズボロ川岸のフランス系カナダ軍との戦闘である。フランスの士官ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイは、フランス軍をポール・ラ・ジョワイエ(現在のアマースト砦)に送り込み、2隻の軍艦に乗せて、200人部隊のマサチューセッツ軍を奇襲し勝利した。このマサチューセッツ軍は、ルイブールに向けての物資を積んでいた[1]。
ポール・ラ・ジョワイエの戦い | |||||||
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ジョージ王戦争中 | |||||||
アマースト砦(ポール・ラ・ジョワイエ) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 ヌーベルフランス ミクマク族 |
グレートブリテン王国 ニューイングランド植民地 | ||||||
指揮官 | |||||||
ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイ(総司令官) ニコラ・アントワーヌ・クーロン・ド・ヴィリエ(指揮官) シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェ ジョゼフ=ミシェル・ド・クロワジユ・エ・ド・モンテソン | ウィリアム・ペッパーレル | ||||||
戦力 | |||||||
民兵300、ミクマク族200 | 民兵200 | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死1(ミクマク兵)、負傷1 | 戦死及び捕囚約40 | ||||||
歴史的背景
編集1745年のルイブールの戦いの後、イギリスの士官ウィリアム・ペッパーレルは、7月にサンジャン島(現在のプリンスエドワード島)に遠征軍を派遣した。この軍は二手に分かれ、一つはスリーリバーズ(ジョージタウン、ブリュデネル)に、もう一つはポール・ラ・ジョワイエにそれぞれ向かった。スリーリバーズでは、アカディア人のジャン・ピエール・ロマたちは、ニューイングランド軍に何ら抵抗をしなかった。攻撃に使う大砲が6ポンド砲しかなかったからだった[2]。ロマは息子と娘を連れて森へ逃げ、そこで敵軍が村を焼くのを目撃した。父子はその後セントピーターズへ逃げ、それからケベックへ向かって、戦争が終わるまでそこにいた[3]。
同じ1745年の7月、もう一つのニューイングランド部隊がポール・ラ・ジョワイエに到着した[2]。ジョゼフ・ド・ポン・デュヴィヴィエ指揮下のフランスは、ポール・ラ・ジョワイエに20人規模の部隊を駐屯させていた。駐屯隊は逃走し、ニューイングランド軍はポール・ラ・ジョワイエを焼き尽くした。デュヴィヴィエと20人の部隊はノースイースト川(ヒルズボロ川)へと退却した。ニューイングランド軍は彼らを追跡したが、アカディアの民兵隊とミクマク族が援軍に来たため追跡をやめた[3] 。
同盟軍のおかげで、フランス軍はニューイングランド軍を軍艦へと追いやった。この時ニューイングランド兵9人が殺され、負傷し、あるいは捕虜となった。一方ニューイングランド軍は6人のアカディア人を人質にとり、アカディア人やミクマク族がニューイングランドの支配に従わないのであれば、人質たちを処刑するだろうと告げた[3]。その後ニューイングランド軍はルイブールへ向かい、デュヴィヴィエと部隊はケベックへ去った。ルイブール陥落後、ロワイヤル島のフランス系住民たちがフランスへ追放され、サンジャン島(プリンスエドワード島)のアカディア人たちも、ジョージ王戦争が終わるまでの間を、強制送還におびえながら暮らした[4]。
翌年、アカディアを取り戻すべく、ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイの指揮のもと、遠征隊がケベックから派遣された。この軍は、ダンヴィユ公爵が率いる遠征軍と連動する目的があった。ラムザイの軍はノバスコシアに1746年の7月に到着した。兵士700人、士官21人の軍勢で、シグネクトに野営を張り、ここでセントジョン川から来た300人のアベナキ族、ノバスコシアから来た約300人のミクマク族と落ち合った。インディアン兵の数は、総勢1300人ほどにもなった。ラムザイの兵士たちは、その年の夏と秋は、到着が遅れているダンヴィユの一行を待つのに費やした[5]。この間、ラムザイはイギリス占領下にあるポール・ラ・ジョワイエに部隊を送り込んだ。
戦闘
編集ラムザイはサンジャン島にシャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェトをやって、ニューイングランド軍の規模がどのくらいであるのかを偵察させた。ボワシェベールは、シャーリーとルビーの2隻の軍艦、200人のマサチューセッツ部隊が、ルイブールに向けて物資を積み込んでいることを知った[6]。軍艦の甲板には、前年人質に取られたアカディア人が少なくとも2人いた[7] 。ボワシェベールが帰還したのち、ラムザイはジョゼフ=ミシェル・レガルデュール・ド・クロワジユとモンテソンに500人以上の兵士をつけてポール・ラ・ジョワイエに派遣した。この時の兵士のうち200人はミクマク族だった[8] 。
7月11日、モンテソンとカナダ軍は、ポール・ラ・ジョイエのすぐ近くのノースイースト川(ヒルズボロ川)の岸で、マサチューセッツの部隊に奇襲をかけた。これはフランスとミクマク族による最初の攻撃で、これで40人のイギリス兵が戦死し、または捕囚された。他のイギリス兵は、港に停泊していた軍艦の陰に隠れた。1746年7月23日、モンテソンは、敵軍に捕えられていたアカディア人の人質2人、そして多くのイギリス人捕虜やアカディア人の案内人と共に、シグネクトのラムザイの元に戻った[9]。
襲撃後
編集その後ラムザイはアナポリスロイヤルの攻撃に向かったが、ダンヴィユの遠征が失敗したため、ことがうまく運ばず、ボーバサンに退却せざるを得なくなった。その翌年の2月に、ニューイングランドへの攻撃で名を高めたラムザイは、サンルイ大十字章を受勲した[10]。
ポール・ラ・ジョワイエは、その後アマースト砦と改名され、1967年カナダ国定史跡の指定を受けて、1973年から一般公開されている[11]。
脚注
編集- ^ DESCHAMPS DE BOISHÉBERT ET DE RAFFETOT, CHARLES - Dictionary of Canadian Biography Online
- ^ a b Harvey, p. 110
- ^ a b c Harvey, p. 111
- ^ Harvey, p. 112
- ^ Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 162
- ^ Lockerby, p. 7
- ^ Harvey. The French régime in Prince Edward Island, p. 119 See book
- ^ John Clarence Webster's, "Memorial on Behalf of Sieur de Boishebert" (Saint John: Historical Studies No. 4, Publications of the New Brunswick Museum, 1942) at p. 11.
- ^ Harvey, p. 119
- ^ RAMEZAY, JEAN-BAPTISTE-NICOLAS-ROCH DE - Dictionary of Canadian Biography Online
- ^ Fort Amherst - The Canadian Encyclopedia
参考文献
編集- Harvey, Daniel C. The French régime in Prince Edward Island, Yale University Press. 1926.
- Lockerby, Earle. "Threats and indulgences: Ile-Saint-Jean in 1745-1747." Island Magazine 54 (2003): 2-10.