ポール・ウジェーヌ・マグロワール(Paul Eugène Magloire、1907年7月19日 - 2001年7月12日)、通称ボン・パパ (Bon Papa)[1]は、1950年から1956年にかけてハイチを統治した軍事政権の指導者。

ポール・マグロワール
第31代 ハイチ共和国大統領
任期
1950年12月6日 – 1956年12月12日
前任者フランク・ラボー
後任者ジョセフ・ネムール・ピエル・ルイ
内務・防衛大臣
任期
1950年5月12日 – 1950年8月3日
大統領フランク・ラボー
前任者ルイ・レイモンド (Louis Raymond)
後任者リュック・E・フーシェ (Luc E. Fouché)
ハイチ暫定軍事評議会議員
任期
1950年5月10日 – 1950年12月6日
大統領フランク・ラボー
内務・防衛大臣
任期
1946年1月12日 – 1946年8月16日
大統領フランク・ラボー
前任者ベリー・テボー (Vély Thébaud)
後任者ジョルジュ・オノラ (Georges Honorat)
軍事執行委員会
任期
1946年1月11日 – 1946年8月16日
大統領フランク・ラボー
個人情報
生誕Paul Eugène Magloire
(1907-07-19) 1907年7月19日
ハイチの旗 ハイチ カルティエ=モランフランス語版
死没2001年7月12日(2001-07-12)(93歳没)
ハイチの旗 ハイチ ポルトープランス
国籍ハイチの旗 ハイチ
政党Mouvement des ouvriers paysans (MOP)
配偶者ヨレット・ルコンテ
職業軍人(将官)
兵役経験
所属国ハイチの旗 ハイチ
所属組織ハイチ陸軍
軍歴1930年-1950年
最終階級将軍

経歴

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マグロワールは、将軍の息子として生まれ、自身も1930年に陸軍に入った。早々と昇進を重ね、1944年にはポルトープランスの警察署長となった。1946年にはエリ・レスコーフランス語版英語版大統領を打倒したクーデターに加わった。それによって政権に就いたデュマルセ・エスティメフランス語版英語版大統領が、1950年に任期延長を画策した際、マグロワールはエスティメを追放し、地域のエリート層の支持を得て政権を獲得した。

マグロワールが統治した時期のハイチは、欧米各地から観光客を集める人気の観光地となった。マグロワールの反共政策は、アメリカ合衆国政府にも支持された。さらに彼は、コーヒーの輸出から得られた収入を、都市の補修や、道路、公共施設、ダムなどの建設に用いた。さらに、婦人参政権の導入も果たされた。マグロワールは、派手な社交生活を好み、数多くのパーティーや社交行事、儀式などを催した。

1954年ハリケーン・ヘイゼルがハイチに壊滅的な被害をもたらし、その救援基金が盗難に遭う事態となって、マグロワールの人気は失墜した。1956年には大統領任期の終了をめぐって論争となり、ストライキと抗議デモが繰り広げられる中、マグロワールは国外に逃亡した。その後、大統領となったフランソワ・デュヴァリエは、マグロワールのハイチ市民権を剥奪した。

1986年、ベビー・ドクことジャン=クロード・デュヴァリエが権力を失うと、マグロワールはそれまで住んでいたニューヨークからハイチに帰還した。その2年後、マグロワールは非公式な陸軍顧問となった。マグロワールは2001年に死去した[2][3]。 私生活では、ヨレット・ルコンテ (Yolette Leconte) と、1981年に彼女が死去するまで連れ添った[4]

脚注

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関連文献

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  • Nicholls, David (1979). From Dessalines to Duvalier: Race, Colour, and National Independence in Haiti. ISBN 978-0-8135-2240-1 
  • Trouillot, Michel-Rolph (1989). Haiti: State Against Nation. Monthly Review Press. ISBN 978-0-85345-755-8 
公職
先代
フランク・ラボーフランス語版英語版
  ハイチ共和国大統領
1950年 - 1956年
次代
ジョセフ・ネムール・ピエル・ルイフランス語版英語版