ポール・ピエール・サルダ(Paul Pierre Sarda、1844年7月12日[1][2] - 1905年4月2日[2])は、明治時代にお雇い外国人として来日したフランス建築家である。

経歴・人物

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フランス南東部、ブーシュ=デュ=ローヌ県アルルに生まれ。[2]

エコール・サントラル・パリ卒業後[1]1873年(明治6年)日本政府の招聘により来日した[1]横須賀造船所のお雇いとなり[2]、後に東京帝国大学(現在の東京大学)にて機械学の教鞭を執った[1]。その後三菱会社に勤務し[3]1877年(明治10年)頃に横浜居留地で建築業を始めた[2]。作品には、横浜フランス領事館指路教会堂等があり[1][2]、日本における建築物の文明開化に貢献した[要出典]。また、同時期に石見銀山で技師を務めたとされている[要出典]

1905年(明治38年)横浜で死去し[2]横浜外国人墓地に葬られたとされる[4]。なお、サルダと日本人女性との間には一人の息子がいたとされている[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『サルダ』- コトバンク
  2. ^ a b c d e f g 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『サルダ』- コトバンク
  3. ^ 『写真で綴る文化シリーズ 神奈川県 3 横浜山手外人墓地』 39頁
  4. ^ 『写真で綴る文化シリーズ 神奈川県 3 横浜山手外人墓地』 39-40頁

参考文献

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  • 生出恵哉 『写真で綴る文化シリーズ 神奈川県 3 横浜山手外人墓地』 暁印書館、1984年