ポルトガル領黄金海岸
かつてアフリカに存在したポルトガルの植民地
- ポルトガル領黄金海岸
- Costa do Ouro
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1482年 - 1642年 → (ポルトガルの国旗) (ポルトガルの国章)
16世紀後半の象牙海岸(左半分)と黄金海岸(右半分)
中央のスリーポインツ岬の右に描かれている「La Mina」がエルミナ-
公用語 ポルトガル語 宗教 カトリック 首都 サン・ジョルジュ・ダ・ミナ 現在 ガーナ
ポルトガル領黄金海岸(ポルトガルりょうおうごんかいがん)は、西アフリカのギニア湾の黄金海岸(現在のガーナ)にあったポルトガルの植民地である。15世紀から金交易・奴隷交易で栄えた。17世紀にオランダによって征服された。
歴史
編集ポルトガルは1482年1月21日から黄金海岸に次の拠点を設立した。
- カステロ・デ・サン・ジョルジュ・ダ・ミナ(ミナ海岸の聖ジョルジュ城)、現エルミナ:1482年1月21日– 1637年8月28–9日。これが首都になった
- アクシムの聖アントニオ砦、現アクシム(Axim):1486 – 1642
- 聖フランシスコ・ザビエル砦、現アクラのオース地区(Osu):1640–1642
- 聖セバスティアン砦、現シャマ(Shama):1526–1637。
1637年8月29日、オランダがエルミナを占領した。 1642年1月9日、植民地全体がオランダ領に割譲され、オランダ領黄金海岸の一部となった[1]。
カピタン・モール
編集黄金海岸は小規模な植民地だったため、総督や副王でなくカピタン・モールが治めた。
初代ディオゴ・デ・アザンブージャはジョアン2世の王命を受けて艦隊を率いて黄金海岸に赴き、サン・ジョルジュ砦を築くと、艦隊を本国に帰還させて自身は指揮官として現地に留まった[2]。
歴代カピタン・モール(一部)
編集- 1482年 – 1485年:ディオゴ・デ・アザンブージャ(初代)
- 1485年 –1486年:アルバロ・ヴァズ・ペスターノ
- 1495 年– 1499年:ロポ・ソアレス・デ・アルベルガリア
- 1499年(?) – 1503年(?):フェルナン・ロペス・コレイア
- 1503年(?) – 1506年(?):ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ
- 1519年 – 1522年:ドゥアルテ・パチェコ・ペレイラ
- 1522年 –1524年:アフォンソ・デ・アルブケルケ
- 1524年 –1525年:ジョアン・デ・バロス[3]:26
- 1526年 –1529年:ジョアン・ヴァズ・デ・アルマダ
- 1529年 –1532年:エステバン・ダ・ガマ
- 1536年 –1537年:マヌエル・デ・アルブケルケ
- 1632年 – 1634年:ペドロ・マスカレーニャス
- 1634年 – 1634年:ドゥアルテ・ボルヘス(代理)
- 1634年 – 1642年:アンドレー・ダ・ローシャ・マガリャエス(代理)
脚注
編集- ^ Newitt, Malyn (2010-06-28) (英語). The Portuguese in West Africa, 1415–1670: A Documentary History. Cambridge University Press. ISBN 978-1-139-49129-7
- ^ Luciano Cordeiro (1892). Descobertas e descobridores: Diogo d'Azambuja. Imprensa nacional 2020年9月30日閲覧。
- ^ Wilks, Ivor. Wangara, Akan, and Portuguese in the Fifteenth and Sixteenth Centuries (1997). Bakewell, Peter. ed. Mines of Silver and Gold in the Americas. Aldershot: Variorum, Ashgate Publishing Limited. pp. 24