ホーコン3世 (ノルウェー王)
ノルウェー国王(1202年-1204年)
ホーコン3世スヴェレソン(Håkon III Sverresson、1180年 - 1204年1月1日)は、ノルウェーの国王(在位:1202年 - 1204年)。スヴェレ・シグルツソンの庶子で、ホーコン・ホーコンソンの通称で知られるホーコン4世の父[1]。
ホーコン3世 Håkon III Sverresson | |
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ノルウェー国王 | |
ホーコン3世のシール | |
在位 | 1202年 - 1204年 |
出生 |
1180年 |
死去 |
1204年1月1日 ノルウェー、ベルゲン |
埋葬 | ノルウェー、ベルゲン |
子女 | ホーコン4世 |
家名 | スヴェレ家 |
王朝 | ホールファグレ朝 |
父親 | スヴェレ・シグルツソン |
母親 | アストリッド・ロースドッテル |
生涯
編集1130年から1240年にかけてのノルウェー内乱は、王が死去した時に後継者が不明であったり、社会的状況、教会と王の間の権力闘争、貴族間の紛争など、さまざまな理由によるものであり、バグリ党とビルケンバイン党の2つの政党の出現につながった。それぞれの党の支持者は、通常、王の息子の周りに結集して、王位継承に対する主張を支援した。
ホーコンは1197年にオスロでのバグリ党との戦いの時に、父の軍の指揮官の1人として最初に確認され、その後はこれらの戦いの参加者としてしばしば確認される。スヴェレは死の床でホーコンが自身の唯一の生存する息子であると宣言し、教会との長年の対立を解決するようにホーコンに求める手紙を書いた。ホーコンは教育を受けた人物であり、バルラームとヨサファトの伝説をラテン語からノレン語(no)に翻訳したことで知られている[2]。
1202年、父の死により即位する。しかし即位後はノルウェー東部を支配する貴族層や王族たちと争い、在位わずか2年にして毒殺された。継母マルガレータ・エリクスドッテルに毒殺の嫌疑がかけられた[3]。
脚注
編集- ^ 百瀬 他、付録p. 67
- ^ R. Keyser, C. R. Unger. Barlaams og Josaphats saga. Christiania 1851. p. XIII f.
- ^ “Håkon 3. Sverresson”. Store norske leksikon. 2023年1月15日閲覧。
参考文献
編集- 百瀬宏 他 『新版 世界各国史 21 北欧史』 山川出版社、1998年
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