ベンジャミン・ヘイドン
ベンジャミン・ロバート・ヘイドン(英語: Benjamin Robert Haydon, 1786年1月26日 - 1846年6月22日)はイギリスの画家である。歴史画、肖像画を描いた。実生活上では借金未返済、詐欺などで訴えられ何度か投獄された。
ベンジャミン・ヘイドン Benjamin Haydon | |
---|---|
自画像 | |
生誕 |
1786年1月26日 グレートブリテン王国 プリマス |
死没 |
1846年6月22日 イギリス ロンドン |
略歴
編集プリマスで繁盛した印刷業・出版業を営む同名の父親の一人息子として生まれた。少年期はPlymouth Grammar SchoolとPlympton Grammar Schoolで学ぶ。1804年にロンドンに単身で移り住み、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学して熱心に修行した。21歳になった1807年に、エジプトを題材にした絵をアカデミーの展覧会に初めて出展した。この作品は美術品収集家のトマス・ホープに翌年、買い上げられ画家として上々のスタートとなった。マルグレイヴ伯爵から絵の注文を受け、後にナショナル・ギャラリーの創設に寄与する美術愛好家の準男爵ジョージ・ボーモントに紹介された。[1]
1809年にアカデミーの注文により描いた絵は評判になったが、アカデミーがその絵を大ホールにでなく、サイドルームに展示したことでアカデミーとの間で紛争を起こした[1]。1810年にはチャールズ・ロック・イーストレイク(1793-1865)を最初の弟子にした。
このころ画家としての収入が得られるようになったとして、父親からの支援が打ち切られ、借金を膨らませていく生活が始まることになった[2]。1814年にフランスでナポレオンが集めた美術品を見る機会を得たが、否定的な感想を持ったとされる[3]。1820年代に入って借金の返済ができなくなり1823年に2ヶ月間債務者監獄に収監された。
弁護士の援助と助言で肖像画を描き始め、しばらくはある程度の成功を収めたが、結局1827年に2度目の債務者監獄への投獄を経験することになった[4]。債務者監獄で行われた代議員を選ぶ選挙のパロディを題材に描き、その絵が国王に買い上げられたりした。
1846年に大きな借金を残して自殺した。1839年頃から自伝の執筆に取り掛かり、生前のうちに1820年頃までの生涯について書き上げた。この自伝は、死後の1853年に3巻本として出版されたLife of Benjamin Robert Haydon, Historical Painterの第1巻を構成することとなった。残りの2巻は彼が遺した膨大な日記からの抜粋となっている。
ベンジャミン・ヘイドンの弟子には、イーストレイクの他、チャールズ・ランドシーア(1799-1879)とエドウィン・ランドシーア(1802-1873)の兄弟、ウィリアム・ビューウィック(1795-1866)、ジョン・ジャクソン(1778-1831)、エドワード・チャットフィールド(Edward Chatfield: 1802–1839)がいた。
作品
編集-
「反奴隷協会の人々」(1841)
-
「キリストのエルサレム入城」
-
ナポレオン
-
ウィリアム・ワーズワース
脚注
編集- ^ a b この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Haydon, Benjamin Robert". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 13 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 111–112.
- ^ O'Keefe 2009, p.91
- ^ O'Keefe 2009, p.128
- ^ O'Keefe 2009, pp.240–1
参考文献
編集- O'Keefe, Paul (2009). A Genius for Failure:The Life of Benjamin Robert Haydon. London: The Bodley Head. p. 177. ISBN 9780224062473.
- Life of B. R. Haydon, from his Autobiography and Journals, edited and compiled by Tom Taylor (3 vols., 1855)
- B. R. Haydon's Correspondence and Table Talk, with a memoir by his son, FW Haydon (2 vols., 1876)