ベンジャミン・ブルームフィールド (初代ブルームフィールド男爵)

初代ブルームフィールド男爵ベンジャミン・ブルームフィールド: Benjamin Bloomfield, 1st Baron Bloomfield GCB GCH PC1768年4月13日 - 1846年8月16日)は、イギリス陸軍の軍人、国王ジョージ4世国王秘書官英語版および国王手許金会計長官

初代ブルームフィールド男爵

生涯

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軍人として

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ジョン・ブルームフィールドと妻アン(1828年没、法廷弁護士サミュエル・ウォラーの娘)の息子として[1] 、1768年4月13日に生まれた[2][3]王立陸軍士官学校で教育を受けた後、王立砲兵隊英語版の少尉としてイギリス陸軍に入隊した[2]。1787年に中尉に、1794年にCaptain-lieutenantに昇進した[4]ニューファンドランドジブラルタル駐在を経て1798年アイルランド反乱英語版ビネガー・ヒルの戦い英語版に砲兵として参戦した[1][3]。1805年に少佐への名誉昇進辞令英語版を得て、1806年に正式に昇進した[4]。同年に中佐に昇進した[4]

ウェールズ公の知遇を得る

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1806年にブライトンに駐留していたとき、社交と音楽の才芸によりウェールズ公ジョージ(のちの国王ジョージ4世)の目に留まり、1808年にウェールズ公の侍従に任命され、1811年2月9日[5]から1814年までウェールズ公のエー=ド=カン英語版(副官)を務めた[4]。1810年にはウェールズ公よりウェールズ公妃キャロラインを調査するよう命じられた[3]。政敵の初代グレンバーヴィー男爵シルヴェスター・ダグラスは日記でこの時期のブルームフィールドを「偽善者のメソジストで、口では宗教や道徳を述べるが、行動では結婚した男でありながらダウンシャー侯爵夫人と公然に不倫した」と批判した[4]。1812年2月25日に大佐への名誉昇進辞令を得て[6]、1812年3月から1817年までClerk Marshal and Chief Equerryを務めた[4][7]

庶民院議員

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ウェールズ公の後援を得たブルームフィールドは1812年6月にプリマス選挙区英語版の補欠選挙で立候補した[8]。プリマスでは海軍とウェールズ公が影響力を持ち、ブルームフィールドを代表しての選挙活動が1811年より行われていたが、海軍を代表する初代セント・ヴィンセント伯爵ジョン・ジャーヴィスは相談されなかったことに怒り、ウェールズ公派の現職議員トマス・ティルウィット英語版が激しく反対していると主張した[8]。ただし、『英国議会史英語版』によれば、ティルウィットは疑念をもってはいたが、公然とウェールズ公に反対できるほどではなく、最終的には黒杖官の任命を受けて議員を退任して、ブルームフィールドが無投票で当選した[8]同年10月の総選挙にも無投票で再選した[8]。議会では演説しなかったものの、採決で常に与党を支持した[4]。またカトリック解放には反対の立場だったが、後年の1829年ローマ・カトリック信徒救済法には国王、ウェリントンピールといった「プロテスタントの権威の認可を得た」として支持した[4]。1814年6月7日に少将に昇進[9]、1815年にロイヤル・ゲルフ勲章英語版ナイト・コマンダーを授与され[1]、同年12月11日に騎士爵に叙された[10]

国王秘書官

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1817年に王室家政において昇進し、国王秘書官英語版および国王手許金会計長官に就任した[4]。同年7月15日、枢密顧問官に任命された[1][11]。1818年初におそらくはウェールズ公の命令を受けて庶民院議員を退任した[4]。1819年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1]

1817年より5年間国王秘書官としてウェールズ公(1820年にジョージ4世として即位)への莫大な影響力を有したが、1822年に失脚して辞任した[3]。失脚の理由は国王手許金会計長官として公金を着服したとも、サー・ウィリアム・ナイトン英語版(後任の国王秘書官)とカニンガム侯爵夫人英語版(ジョージ4世の愛人)の陰謀によるともされる[4][3]

国王秘書官退任後

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退任にあたり、連合王国貴族への叙爵を求めて拒否されたものの、辞任の代償としてアイルランド貴族への叙爵の内定を得て、さらに年金、勲章1つ、閑職2つ、外交職1つを得た[3]。具体的には1822年4月1日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを授与され[12]、同年8月10日にジャマイカのフォート・チャールズ総督に任命された[13]。1824年2月20日に王立砲兵隊英語版Colonel commandantを1823年11月4日付で任命され[14]、1846年に死去するまで務めた[1]。1825年5月14日、アイルランド貴族であるティペラリー県オークハンプトンとレッドウッドにおけるブルームフィールド男爵に叙された[1][15]。1800年合同法の施行以降、アイルランド貴族の新規叙爵には既存爵位が3つ廃絶することが要件になっており、ブルームフィールド男爵の叙爵はロスコモン伯爵バークリー子爵グレンバーヴィー男爵の廃絶を根拠とした[1]

外交職に関しては1823年から1832年まで在スウェーデンイギリス特命全権公使英語版を務め、在任中にメソジズムに改宗した[4]。1830年に中将に昇進した[1]

死去

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長い闘病生活を経て[3]、1846年8月15日にメリルボーンポートマン・スクエア英語版で死去、22日にティペラリー県ロートン・ハウス(Loughton House、現オファリー県マネーゴール英語版)で埋葬された[1]。息子ジョン・アーサー・ダグラス英語版が爵位を継承した[1]

初代男爵の死後、メソジスト聖職者スコット氏(Scott)は1856年にA coronet laid at the feet of Jesus: as illustrated by the conversion of the late Lord Bloomfieldと題する、ブルームフィールド男爵の改宗に関する著作を出版した[3]。2代男爵の死後、その妻ジョージアナ(1822年4月13日 – 1905年5月21日、初代レイヴェンスワース男爵トマス・リデルの娘)は1884年に初代ブルームフィールド男爵に関する回想録(2巻)を出版した[3]

家族

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1797年9月7日、ハリオット・ダグラス(Harriott Douglas、1776年ごろ – 1868年9月12日、ジョン・ダグラスの娘)と結婚[1]、1男3女をもうけた[16]

  • ジョン・アーサー・ダグラス英語版(1802年11月12日 – 1879年8月17日) - 第2代ブルームフィールド男爵(第1期)、初代ブルームフィールド男爵(第2期)[1]
  • ハリオット・アン(1806年5月4日 – 1901年7月13日) - 1833年6月5日、トマス・ヘンリー・キングスコート(Thomas Henry Kingscote、1799年1月19日 – 1861年12月19日)と結婚、子供あり[16][17]
  • ジョージアナ・メアリー・エミリア(1809年10月4日 – 1893年1月13日) - 1836年10月22日、ヘンリー・トレンチ(Henry Trench、1881年3月7日没)と結婚、子供あり[16][17]
  • シャーロット(1815年3月28日 – 1828年3月8日[16]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 193–194.
  2. ^ a b Chichester, Henry Manners (1886). "Bloomfield, Benjamin" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 5. London: Smith, Elder & Co. p. 235.
  3. ^ a b c d e f g h i Chichester, Henry Manners; Stearn, Roger T. (3 January 2008) [23 September 2004]. "Bloomfield, Benjamin, first Baron Bloomfield". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/2674 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l Fisher, David R. (1986). "BLOOMFIELD, Benjamin (1768-1846).". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年6月30日閲覧
  5. ^ "No. 16451". The London Gazette (英語). 5 February 1811. p. 230.
  6. ^ "No. 16577". The London Gazette (英語). 22 February 1812. p. 362.
  7. ^ "No. 17280". The London Gazette (英語). 26 August 1817. p. 1829.
  8. ^ a b c d Fisher, David R. (1986). "Plymouth". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年6月30日閲覧
  9. ^ "No. 16906". The London Gazette (英語). 7 June 1814. p. 1185.
  10. ^ "No. 17090". The London Gazette (英語). 12 December 1815. p. 2477.
  11. ^ "No. 17269". The London Gazette (英語). 16 July 1817. p. 1589.
  12. ^ "No. 17808". The London Gazette (英語). 13 April 1822. p. 615.
  13. ^ "No. 17842". The London Gazette (英語). 10 August 1822. p. 1315.
  14. ^ "No. 18003". The London Gazette (英語). 21 February 1824. p. 291.
  15. ^ "No. 18137". The London Gazette (英語). 14 May 1825. p. 834.
  16. ^ a b c d Lodge, Edmund (1877). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (46th ed.). London: Hurst and Blackett. p. 67.
  17. ^ a b Burke, Bernard (1912). Fox-Davies, Arthur Charles (ed.). A Genealogical and Heraldic History of the Landed Gentry of Ireland (英語). London: Harrison & Sons. p. 58.

外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
トマス・ティルウィット英語版
サー・チャールズ・ポール準男爵英語版
庶民院議員(プリマス選挙区英語版選出)
1812年 – 1818年
同職:サー・チャールズ・ポール準男爵英語版
次代
サー・ウィリアム・コングリーヴ準男爵英語版
サー・チャールズ・ポール準男爵英語版
宮廷職
先代
サー・ジョン・マクマホン
国王秘書官英語版
1817年 – 1822年
次代
サー・ウィリアム・ナイトン準男爵英語版
国王手許金会計長官
1817年 – 1822年
外交職
先代
ウィリアム・ヴェジー=フィッツジェラルド英語版
在スウェーデンイギリス特命全権公使英語版
1823年 – 1832年
次代
ハワード・ド・ウォルデン男爵英語版
アイルランドの爵位
爵位創設 ブルームフィールド男爵
1825年 – 1846年
次代
ジョン・ブルームフィールド英語版