ヘンリー・ベレスフォード (第3代ウォーターフォード侯爵)
第3代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ド・ラ・プア・ベレスフォード(英語: Henry de la Poer Beresford, 3rd Marquess of Waterford KP、1811年4月26日 – 1859年3月29日)は、アイルランド貴族。1824年から1826年までティロン伯爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
編集第2代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ベレスフォードとスザンナ・ハッシー・カーペンター(Susannah Hussey Carpenter、1784年7月15日 – 1827年6月7日、第2代ティアコネル伯爵ジョージ・カーペンターの娘)の次男(長男ジョージは早世)として、1811年4月26日にメリルボーンのマンスフィールド・ストリート(Mansfield Street)で生まれた[1]。1826年7月16日に父が死去すると、ウォーターフォード侯爵位を継承した[1]。1824年から1829年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1829年10月21日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]。
オックスフォード大学では素行によりすぐに自主退学を勧告され、それに従った。その後の10年ほどは「競馬場、狩り場、警察署でよく見かけられた」[注釈 1]という[2]。軽罪で起訴されることも多かったが、刑罰となる罰金の額は所詮は労働者階級に向けた刑罰であり、ウォーターフォード侯爵が笑って支払えるほどの金額だった[2]。1838年には「バネ足ジャック」の正体であると噂された[2]。
1842年6月8日、ルイーザ・ステュアート(1818年 – 1891年5月12日、初代ステュアート・ド・ロスシー男爵チャールズ・ステュアートの娘)と結婚した[1]。結婚を境に放蕩した生活を改めると、度々逮捕されるようなことはなくなり、代わりに領地管理に集中した[2]。ただし、引き続き数百頭の馬を保有し、狩猟の季節では1週間のうち6日も狩りに出かけた[2]。
注釈
編集- ^ 訳注:競馬場と狩り場は競馬と狩猟を頻繁に行うことを指し、警察署は軽罪で度々逮捕されたことを指す。
出典
編集- ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 71–72.
- ^ a b c d e f g Reynolds, K. D. (23 September 2004). "Beresford, Henry de la Poer, third marquess of Waterford". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 99.
アイルランドの爵位 | ||
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