ヘンリー・ブルース (初代アバーデア男爵)
初代アバーデア男爵ヘンリー・オースティン・ブルース(英: Henry Austin Bruce, 1st Baron Aberdare,GCB PC JP DL FRS FRHistS、1815年4月16日 - 1895年2月25日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代アバーデア男爵 ヘンリー・ブルース Henry Bruce, 1st Baron Aberdare | |
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生年月日 | 1815年4月16日 |
出生地 | イギリス ウェールズ・グランモーガンシャー・アバーデア・ダフリン |
没年月日 | 1895年2月25日 (満79歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・ロンドン |
出身校 | リンカーン法曹院 |
前職 | 法廷弁護士 |
所属政党 | 自由党 |
称号 | 初代アバーデア男爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB), 枢密顧問官(PC), 王立協会フェロー(FRS) |
内閣 | 第1次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1868年12月9日 - 1873年8月[1] |
内閣 | 第1次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1873年8月9日 - 1874年2月21日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
マーサー・ティドビル選挙区 レンフルーシャー選挙区[2] |
在任期間 |
1852年7月7日 - 1868年11月17日 1869年1月25日 - 1873年8月23日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1873年 - 1895年[2] |
経歴
編集1815年4月16日、ウェールズ・グランモーガンシャー・アバーデア・ダフリン(Duffryn)に生まれた[3][4]。
父はグランモーガンシャーの地主ジョン・ブルース[4]。母はその妻であるサラ(旧姓オースティン)[3]。
スウォンジーのグラマー・スクールで学び[4]、リンカーン法曹院を出て1837年に法廷弁護士の資格を得る[3]。弁護士を開業した頃、ダフリンはじめアバーデア谷の一帯に石炭が発見され、彼の一族も所有する土地から莫大な富を得た[4]。6年ほど弁護士の仕事をした後、1843年にその仕事から手を引いた[5]。
1847年から1852年にかけてアバーデアの治安判事を務め[4]、警察行政にあたった[5]。
1852年にマーサー・ティドビル選挙区から当選して自由党所属の庶民院議員となる[4][3]。1868年12月の解散総選挙でこの選挙区の議席を失うが[5]、1869年にはレンフルーシャー選挙区から当選し、叙爵される1873年までここの議席を維持した[4][3]。
1862年11月から1864年4月にかけて第2次パーマストン子爵内閣の内務副大臣を務めた[4][5]。その後、1866年7月までパーマストン子爵内閣とその後継のラッセル伯爵内閣で教育委員会副委員長を務めた[5]。
1868年12月から1873年8月にかけて第1次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣した[4][5][6]。その間の1872年にはライセンス法制定を主導した。同法にはライセンスに関する行政庁の設置や公共住宅に関する不正の罰則強化、飲み物販売時間の短縮などが盛り込まれていた[4]。
1873年8月にグラッドストン首相の要求を受け入れて、内務大臣を辞し、枢密院議長に転任するとともに、アバーデア男爵の爵位を受けて貴族院入りした[4][7][8]。
その翌年の解散総選挙に自由党が敗れて下野すると彼の政治家としてのキャリアは事実上終わり、以降は社会問題や経済問題の質問に専念する[4]。
1878年から1892年まで王立歴史協会会長を務める。1881年には王立地理協会会長にも就任した[4]。
また王立ニジェール会社の傘下に創設されたナショナル・アフリカン・カンパニーの社長となり、死去までナイジェリア地域の事業に携わった。この地域は1899年にイギリス政府に保護領として併合されることになる[4]。
栄典
編集爵位
編集勲章
編集その他
編集家族
編集1846年にアナベラ・バードンと結婚し、彼女との間に第2代アバーデア男爵位を継承する長男ヘンリー・キャンベル・ブルースなど1男3女を儲ける[3]。
1852年にアナベラと死別し、1854年に陸軍軍人ウィリアム・フランシス・パトリック・ネイピア中将の娘ノラと再婚した。彼女との間に登山家となる三男チャールズ・グランヴィル・ブルースなど2男7女を儲ける[3]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 秦(2001) p.509
- ^ a b c UK Parliament. “Mr Henry Bruce” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年8月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Henry Austin Bruce, 1st Baron Aberdare of Duffryn” (英語). thepeerage.com. 2014年8月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 1 (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ a b c d e f g Cooper, Thompson [in 英語] (1884). "Aberdare (Lord), Henry Austin Bruce". Men of the Time (11th ed.). London: George Routledge & Sons. pp. 4–5.
- ^ "No. 23449". The London Gazette (英語). 11 December 1868. p. 6581. 2014年8月12日閲覧。
- ^ "No. 24007". The London Gazette (英語). 12 August 1873. p. 3769. 2014年8月12日閲覧。
- ^ a b "No. 24010". The London Gazette (英語). 22 August 1873. p. 3903. 2014年8月12日閲覧。
- ^ "No. 25431". The London Gazette (英語). 9 January 1885. p. 120. 2014年8月12日閲覧。
- ^ "No. 22848". The London Gazette (英語). 26 April 1864. p. 2280. 2014年8月12日閲覧。
- ^ "Bruce; Henry Austin (1815 - 1895); 1st Baron Aberdare". Record (英語). The Royal Society. 2014年8月12日閲覧。
参考文献
編集- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Henry Bruce
- "ヘンリー・ブルースの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Henry Austin Bruce, 1st Baron Aberdare (1815-1895) - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- Grant Duff, Mountstuart Elphinstone [in 英語] (1901). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co. pp. 322–325.
公職 | ||
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先代 ジョージ・クライブ |
内務副大臣 1862年 – 1864年 |
次代 トマス・ベアリング |
先代 ロバート・ロー |
教育委員会副委員長 1864年 – 1866年 |
次代 ヘンリー・ローリー=コリー閣下 |
先代 ギャソーン・ハーディ |
内務大臣 1868年 – 1873年 |
次代 ロバート・ロー |
先代 初代リポン侯爵 |
枢密院議長 1873年 – 1874年 |
次代 第6代リッチモンド公爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 サー・ジョン・ゲスト準男爵 |
マーサー・ティドビル選挙区選出庶民院議員 1852年 – 1868年 |
次代 ヘンリー・リチャード |
先代 アーチボルド・スピアーズ |
レンフルーシャー選挙区選出庶民院議員 1869年 – 1873年 |
次代 アーチボルド・キャンベル |
学職 | ||
新設 | アベリストウィス大学学長 1874年 – 1895年 |
次代 初代レンデル男爵 |
先代 初代ラッセル伯爵 |
王立歴史協会会長 1878年 – 1891年 |
次代 サー・マウントスチュアート・グラント・ダフ |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代アバーデア男爵 1873年 – 1895年 |
次代 ヘンリー・ブルース |