ヘレン・シャルフベック
ヘレン・シャルフベック(フィンランド語: Helene Schjerfbeck、1862年7月10日 - 1946年1月23日)は、フィンランドの女性画家。
ヘレン・シャルフベック | |
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Helene Schjerfbeck | |
生誕 |
1862年7月10日 フィンランド |
死没 |
1946年1月23日(83歳没) サルツヨバーデン(Saltsjöbaden) |
国籍 | フィンランド |
教育 | パリ |
著名な実績 | 画家 |
代表作 | 快復期(1888年)、お針子(働く女性)(1905年) |
受賞 | パリ万博で受賞[1] |
影響を受けた 芸術家 | マネ、セザンヌ、ホイッスラー、エル・グレコ |
略年譜
編集3歳のときに階段から落ちて腰を痛め、足が不自由になった[1]。小学校には通えなかったが1873年の秋、11歳のときにフィンランドの芸術協会(Suomen Taideyhdistys)の描画学校で美術に入学[1]。1880年、18歳で政府の旅行許可を受け、奨学金を得てパリに渡り[1]、写実主義の画家レオン・ボナに学び、私立の美術学校・アカデミー・コラロッシで学んだ。
1883年にイギリス人の画家に会って婚約したが、1885年に一方的に婚約を破棄された[1]。 1885年春にパリの有名なサロンで初めて展示。1889年のパリ万国博覧会で銅賞受賞[1]。
1890年代に、ヘルシンキのフィンランド絵画協会の美術学校(現在の Taideyliopiston Kuvataideakatemia)で教え始め、教えた学生にはヒルダ・フルディーン(Hilda Flodin: 1877–1958)らがいる。病気がちなこともあって、1902年に職を辞すると、有名な療養所のあるヒュビンカー(Hyvinkää)に移り、母親の世話をしながら作品を描いた。1917年にヘルシンキで最初の個展を開いた。
フィンランドで最も尊敬される画家の一人である[2]が、当時は同世代の人からは批判されていた。1917年にGöstaStenman主催の個展の後にファンを獲得し始めた[3]。
1923年に母親が亡くなった後、1925年からウーシマー県の沿岸の町エケネスに住んだ。1939年にロシアとの戦争のためエケネスを離れ、その後スウェーデンに移り、ストックホルム郊外のサルツヨバーデン(Saltsjöbaden)に移り、1946年にそこで亡くなった。
作品
編集- 洗濯干し 1883年 - フィンランド国立アテネウム美術館蔵
- 扉 1884年
- 自画像 1884-1885年
- 母と子 1886年
- 快復期 1888年
- 雪の中の傷ついた戦士 1880年
- お針子(働く女性) 1905年
- 赤いりんご 1915年 - フィンランド国立アテネウム美術館蔵
- 黒い背景の自画像 1915年
- ロマの女1919年
- 諸島から来た女性 1929年
- 黒いりんごのある静物 1944年 - ディドリクセン美術館蔵
- 自画像、光と影 1945年 - ユレンベリ美術館蔵
日本における主要な展覧会
編集- 東京展 東京芸術大学美術館 2015年
- 宮城展 宮城県美術館 2015年
- 広島展 奥田元宋・小由女美術館 2015年
- 神奈川展 神奈川県近代美術館 葉山 2016年[4]
脚注
編集- ^ a b c d e f “【美の扉】「ヘレン・シャルフベック-魂のまなざし」北欧の画家の知られざる魅力”. 産経新聞. (2015年6月14日) 2021年9月25日閲覧。
- ^ Biografiakeskus
- ^ Konttinen, Riina. “Schjerfbeck, Helene (1862–1946)”. National Biography of Finland. 2020年5月12日閲覧。
- ^ NHKプロモーション