ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー

ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリーペルシア語: حیدرخان عمواوغلی‎, アゼルバイジャン語: مُدَرِّسٌحیدرخان عمواوغلی تاریوردی‎, 1880年12月20日 - 1921年10月15日)は、ガージャール朝イランの革命家。民族はアゼルバイジャン人英語版であり[1]ガイダル(ハイダル)=ハーン・タリヴェルディエフ (Гайдар (Хайдар)-хан Таривердиев) とのロシア語名も持つ[2]

ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー
حیدرخان عمواوغلی
生年 (1880-12-20) 1880年12月20日
生地 イランアーザルバーイジャーン州オルーミーイェ
没年 (1921-10-15) 1921年10月15日(40歳没)
没地 イランギーラーン州
ギーラーン共和国)、フーマンペルシア語版近郊
思想 民族主義社会民主主義
活動 アミーノッ・ソルターン英語版の暗殺
ギーラーン共和国の指導
所属ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
デモクラート党
イラン共産党ペルシア語版
母校 チフリス高等技術学校
信教 イスラーム教
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党創立時期からのボリシェヴィキとされ、イランでは要人の暗殺や立憲革命への参画などで、急進勢力として活動した。十月革命後はロシアへ渡ったが、そこでは同じくイラン人ボリシェヴィキのアヴェティス・スルタンザーデ英語版らと激しく対立した。イラン北部に革命政権「ギーラーン共和国」が樹立されると、この混乱を利用してイラン共産党ペルシア語版の実権を掌握したが、やがてはボリシェヴィキ中央との方針の対立により一切の権力を失い、ギーラーン政権の右派による処刑という最期を遂げた。

生涯

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立憲革命まで

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ヘイダルは1880年12月20日に、アーザルバーイジャーン州オルーミーイェで、開業医を営む父と地主の娘である母との間に、次男として生まれた[3][注 1]。6歳の時に一家でロシア帝国南カフカースへと移り、エリヴァニ県ロシア語版アレクサンドロポリに定住した[6]。家庭ではムスリム的文化教育を受け、学校教育は地元のロシア人学校からエリヴァニチフリスでの中等・高等教育へと進んだ[6]。自身の回想によれば、ヘイダルはチフリス高等技術学校に在学中の1898年ロシア社会民主労働党に入党したとされる[6][注 2]

1900年頃からバクーで電気技師・機械工やボーリング技師として働き、1903年10月からは母国のテヘランへ渡って、鉄道会社や保険・運送会社で働いた[6]。この頃、ヘイダルはロシア社会民主労働党からの指令のもと、非合法の社会民主主義組織であるヒンメトとイラン社会民主党 (fa) の現地支部開設に関わった[6]。また、1907年8月に発生した首相アミーノッ・ソルターン英語版暗殺を指揮したとされ、翌1908年2月のモハンマド・アリー・シャー暗殺未遂事件も指導している(事件後にヘイダルらは逮捕されたが、証拠不十分で釈放された)[9]。ロシア社会民主労働党がテロ路線を否定していたにもかかわらず、その後もヘイダルは政的テロリズムの強固な支持者であり続けた[10]

立憲革命であった同時期には、ヘイダルはバクーから派遣された部隊とともに反革命勢力と戦った[11]。モハンマド・アリー・シャーが廃された後の第二立憲時代には、議会における急進派(デモクラート党)のオルガナイザーとして活躍した[10]

第一次世界大戦期

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1911年3月にモハンマド・ヴァリー・ハーン・セパフサーラールペルシア語版政権が成立すると、ヘイダルは国外退去を勧告されてヨーロッパへ渡った[10][注 3]。そして、同じく亡命を余儀なくされていたセイエド・ハサン・タキーザーデペルシア語版が、ベルリンドイツ帝国外務省の後援を受けて結成していたデモクラート党亡命指導部「イラン委員会」へと、1915年10月に合流した[12]

第一次世界大戦が本格化すると、母国イランが中央同盟国派と連合国派に分裂したことを受け、イラン人による中央同盟国派義勇軍の形成を、ヘイダルはイラン委員会から命じられた[13]。12月にヘイダルはバグダードへ赴き、独土統合軍司令官のコルマール・フォン・デア・ゴルツとも会見した[14]。しかし、イランの中央同盟国派がドイツよりオスマン帝国に接近するようになったこと、そしてヘイダルが軍事的才覚に乏しく、与えられた指揮系統を受け入れなかったことなどが重なり、ついにヘイダルはイラン委員会からも排除された末に、1916年10月にベルリンへ戻った[14]。翌1917年5月にヘイダルはデンマークへと出国し、その後スカンディナヴィアを経由してロシア・ソビエト共和国に入った[12]

ロシアでの活動

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ヘイダルは、1917年12月から1919年末までをペトログラードモスクワで過ごした[12]。この頃のヘイダルは、民族問題人民委員部内の中央ムスリム人民委員部国際宣伝部や、ムスリム共産主義組織中央ビューローに参画した[12]。また、モスクワ在住の下層イラン人に対する援助団体の要職にも就いた[15]

1920年2月、ヘイダルはレフ・トロツキーの推薦を受け、反英闘争へ向けた在露イラン人部隊を編制する目的で、トルキスタン自治共和国タシュケントへと赴いた[14]。しかし、ここでヘイダルは現地の執行部と激しく対立した[16]。ヘイダルは、「何があっても自分が軍事指導者にならねばならないし、ロシアにおけるトロツキー同志のようにペルシアにおいてなりたい」と主張して譲らず、さらには執行部のアヴェティス・スルタンザーデ英語版について、そのアルメニア系ペルシア語版の出自をあげつらった非難を行った[16]。逆に非難を受けて執行部から排除されたヘイダルは[16]、同年6月にスルタンザーデがイランのアンザリーで行った、イラン共産党ペルシア語版の設立大会 (fa) にも参加せず、9月までアシガバードに留まり続けた[17]

ギーラーンでの活動

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同月1日からバクーで開催されることになった東方諸民族大会においては、ヘイダルも代議員として選出された[18]。そして、この大会でヘイダルが問題としたのは、イラン北部に建設されていた革命政権「ギーラーン共和国」についての混乱と、それをめぐるスルタンザーデらイラン共産党中央委の責任についてであった[18]。ヘイダルとその支持者らは、スルタンザーデらに中央委からの辞任を要求し、後任に自分たちを選出するよう求めた[18]。両派はまたも激しく対立したが、結局はヨシフ・スターリンの提起に従い、11月11日のボリシェヴィキ中央委カフカース局 (ru) 決議により、ヘイダルを書記とする新たなイラン共産党中央委が発足することとなった[19]

こうしてイラン共産党指導者となったヘイダルは、1921年1月26日に新たなテーゼを発表し、即時の共産革命路線を撤回し、プロレタリアートと中小ブルジョワジーの共闘路線を採用した[20]。そして、ギーラーン革命において分裂状態にあった右派のミールザー・クーチェク・ハーンペルシア語版の勢力と、左派のエフサーノッラー・ハーン・ドゥーストダールペルシア語版の勢力との糾合に取りかかった[20]。そして、5月には両者の対立を治め、ギーラーンの革命政権を再統一することに成功した[21]

しかしコミンテルン指導部は、ヘイダルではなくイラン共産党中央委を追われたスルタンザーデ側を支持し、ヘイダルを信任しなかった(コミンテルン宣伝部のミハイル・パヴロヴィチは、「ヘイダル・ハーンのグループには仮面を着けずに堂々と活動し、コムニストの夏シャツを身に着けないよう提案したい」とまで述べている)[22]。コミンテルン執行部はヘイダルをモスクワへ召喚したが、ヘイダルはこの命令を拒否した[22]。さらに、ヘイダルは2月に締結されたソビエト・イラン友好条約ドイツ語版を無視して、テヘラン中央政府と戦うための勢力を密かにギーラーンへと移送していた[21]

党中央を完全に無視するようになったヘイダルに対し、ソビエト・アゼルバイジャン指導部や党中央カフカース局からのヘイダルを擁護する声もなくなり、5月24日にはアゼルバイジャン共産党中央委が、ヘイダルからの党員証の剥奪を決議した[21]。6月4日にはカフカース局がイラン共産党中央委の解散を決議したが、ヘイダルはこれも拒否し、逮捕命令を掻い潜って同月末にクーチェク・ハーンの元へ逃亡した[21]。しかしその頃にはクーチェクすらも、一切の組織的後ろ盾を失ったヘイダルを見限っていた[23]。9月29日にクーチェク派が起こしたクーデターによってヘイダルは逮捕され[23]、10月15日にフーマンペルシア語版近郊で殺害された[2]

評価

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ヘイダルの事績には資料に乏しい点もあり、論者によってもその評価は大きく異なる[1]。イランの研究者からは、ヘイダルは敬虔なムスリムであり、立憲革命にも積極的に関わったナショナリストであると評価される[1]。実際、ヘイダルはボリシェヴィキの会議においても民族主義的な演説で失笑やブーイングを買うことがあり、革命理論についてもシャリーアに基づくイスラーム社会主義に終始する粗雑なものであった[24](ただし、ヘイダルが「民族革命は社会革命へ転化する」との確信を持っていたことは事実である[4])。

一方、ソビエト連邦の研究者、そしてその流れを汲むトゥーデ党英語版からは、生前の評価とは対照的に、ヘイダルは党内の左派と対決することも厭わなかった「真のボリシェヴィキ」として高く評価された[1]。アゼルバイジャン政府はヘイダルの死の直後から遺族年金の支給を決定し、連邦政府は1968年にヘイダルを、同じく反革命勢力に殺害された「26人のバクー・コミッサール」と同等の地位に顕彰した[25]。実際には、ヘイダルは立憲革命期からの社会民主主義思想から決して外れなかったにもかかわらず、ギーラーン革命の関係者が死に絶えた後のソ連では、ヘイダルはイラン人ボリシェヴィキの先駆者として神話に祀り上げられていったのである[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ ヘイダルは第1夫人の次男であり、1908年の時点で一家には6男5女の子供たちがいた[4]。同母兄のアッバースは後にヘイダルとともにアミーノッ・ソルターン英語版の暗殺に関与し、同母弟スライマーンはペトログラード軍事革命委員ロシア語版や「アダーラト」中央委員などを務めた[5]
  2. ^ 1898年は同党の創立年度であり、ムスリムがこの年に入党するというのは、アサドゥッラ・アフンドフ(ru, 1901年入党)、ナリマン・ナリマノフ(1905年入党)など他の古参活動家と比較しても異様に早い[7]。そのため、この履歴はヘイダルの業績を過大評価するための創作との説もある[8]
  3. ^ ヨーロッパでのヘイダルの足跡については資料が乏しいが、1912年プラハで開催されていたロシア社会民主労働党第6回全露協議会でヘイダルがウラジーミル・レーニンと会見した、とする資料も存在する[10]

出典

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  1. ^ a b c d 黒田 (1992) 20-21頁
  2. ^ a b Хайдар Амуоглы // Франкфурт — Чага. — М. : Советская энциклопедия, 1978. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 28).
  3. ^ 黒田 (2007) 199頁
  4. ^ a b 黒田 (1992) 35頁
  5. ^ 黒田 (1992) 36-37頁
  6. ^ a b c d e 黒田 (1992) 22-23頁
  7. ^ 黒田 (1992) 40頁
  8. ^ 黒田 (2007) 200頁
  9. ^ 黒田 (1992) 25-26頁
  10. ^ a b c d 黒田 (1992) 27-29頁
  11. ^ 黒田 (1992) 24頁
  12. ^ a b c d 黒田 (1992) 30頁
  13. ^ 黒田 (2007) 204頁
  14. ^ a b c 黒田 (2007) 205-206頁
  15. ^ 黒田 (1992) 31頁
  16. ^ a b c 黒田 (2007) 207頁
  17. ^ 黒田 (1992) 32頁
  18. ^ a b c 黒田 (2007) 209頁
  19. ^ 黒田 (2007) 210頁
  20. ^ a b 黒田 (2007) 211頁
  21. ^ a b c d 黒田 (2007) 213頁
  22. ^ a b 黒田 (2007) 212頁
  23. ^ a b c 黒田 (2007) 214頁
  24. ^ 黒田 (1992) 33-34頁
  25. ^ 黒田 (1992) 39頁

参考文献

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  • 黒田卓「ハイダル・ハーンと近代イラン」『西南アジア研究』第36号、西南アジア研究会、1992年3月、20-47頁、ISSN 0910-3708 
  • 黒田卓「ヘイダル・ハーンの事績再考」(PDF)『上智アジア学』第25号、上智大学、2007年12月、197-220頁、ISSN 0289-1417NAID 110006992546